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負けて勝つ神に変えられる

相撲は、弥生時代から行われ、神事として、武術として、大衆娯楽として、国技として親しまれてきました。この「すもう」という言葉は「争う」という意味の古い言葉から来ているそうです。旧約聖書にも『神と人』と争って勝った男の話が出てきます。ヤコブです。エサウとの再会を目前にして、神様に祈ることで変わり始めたヤコブ。さらに『神と人』と相撲を取ることで大きな変化を迎えます。とうことで、2月11日(日)の礼拝は、「負けて勝つ神に変えられる」と題してメッセージでした。

人の顔から神の顔へ

『わたしがさきに送る贈り物をもってまず彼をなだめ、それから、彼の顔を見よう。そうすれば、彼はわたしを迎えてくれるであろう』。これはこう訳せます。「私は私の顔の前を行くこの贈り物で彼の顔を覆おう。それから彼の顔を見よう。そうすれば、彼は私の顔を上げるかも知れない」。ヤコブは祈る中で最悪ではなく最善を考えて備えるようになりました。でもまだ、エサウの顔が気になった。20年以上前、ヤコブが家を出る時のエサウの顔はどんなだったか?今もあの時の顔の記憶は変わらない。そこに『ひとりの人』が来て相撲を取りました。この人は自分を『神と人』と言い、ヤコブは『わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている』と言います。受肉前のキリスト?これより後、「神の顔」は救いと滅びの両方を表すようになります。神様は常に私たちに向いておられます。人が神様に向けば祝福が流れます。人が神様に向かなければ祝福は流れず滅びていきます。しかしヤコブは神様に向き続け、祝福を求め続けたのです。

我の力から求める力へ

この相撲を「神への祈り。祈りの格闘だ」という人もいます。しかし実際に取っ組み合いもしていました。『ひとりの人』はヤコブの『もものつがい』を外しました。股関節脱臼!もう踏ん張れない。『ひとりの人』の勝ちのはず。しかしヤコブが『わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません』と食い下がり、『ひとりの人』はヤコブの勝ちを認めました。なんで?ヤコブは今までのような人から奪う我の力で勝ったのではありません。ヤコブの「神様!祝福してください!」という思いが、神様の「ヤコブを祝福したい」という思いに勝ったのです。求め勝ち。祝福は神様に求める以外に得られない。求めるしかない。その祝福が全ての営み(我の力さえ)の元手になる。ヤコブは一旦、主張しすぎる我の力を失って、原点に立ち帰ることができたのです。

負けて勝つ神に似る者へ

ヤコブは『ひとりの人』から新しい名前をもらいました。イスラエル。名前が変わることはその人の外側と内側の変化がある時。ヤコブの外側の変化は足を引きずるようになったこと。もう我の力で勝つことも家族も守れない。では内側の変化は?恐れがなくなったこと。我の力を失ったのに恐れがなくなった。次の33章でそれがよくわかりますが、32章の最後にこうあります。『こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼった』。「日は彼に向かってのぼった」とも訳せます。ライジングサン!彼の心を表しているかのようです。神様と顔と顔を合わせ救いを得たから。共にいてくださる神様を経験したから。「共にある神にまさるものなし」を実感したからです。

この『ひとりの人』『神と人』が受肉前のキリストかはわかりません。しかし私たちには受肉されたイエス・キリストが共におられます。イエス様は人の弱さを経験され、いつも父なる神様に祈られ、ついには十字架につけられ死なれました。人々は嘲りました。弱いやつ、負け犬、愚か者。でも誰も勝つことのできなかった罪と死に勝利された。その勝利が私たちの救いと祝福となった。私が求めさえすれば、私がどんなに弱くても、負け犬と言われても、愚か者呼ばわりされても、その勝利を味わえるのです。ヤコブはそんな負けて勝つ神に変えられた。私たちの名前は変わりませんが、イエス様を信じて神の子に変えられた。神様は私たちを、押しのけ、欺き、力尽くで勝とうとする者ではなく、へりくだった、真実な、力を抜いて祝福を広げる『神と人』イエス様にいよいよ似る者としてくださいます。

2月18日(日)の礼拝は、創世記第33章1節〜20節から、「祝福の人間関係」と題してメッセージです。


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