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人生は祝福を目指す旅

今、葬りのかたちが多様化しています。それは故人一人一人を大切にする思い、末永く記憶にとどめておきたい思いがあるからではないでしょうか。また思想信条をこえて、永遠を思う根源的な思いがあるからではないでしょうか。ということで10月22日(日)の礼拝は、創世記第23章1節〜20節から、「人生は永遠を目指す旅」と題してメッセージでした。聖書で最初の葬りに関する記述、アブラハムが長年連れ添ったサラの死にまつわる出来事が記されています。

人生は旅
『わたしはあなたがたのうちの旅の者で寄留者ですが、わたしの死人を出して葬るため、あなたがたのうちにわたしの所有として一つの墓地をください』。アブラハムはサラのために悲しみ泣きました。男でも、族長でも、神を信じる者でも泣いていい。悲しみを悲しみとして向き合えると深い喪失から再び立ち上がることができる。アブラハムは立ち上がり、慰めに集まってくれた近所の人々に先の言葉を述べました。新約聖書ヘブル人への手紙はこの時のことをこう語ります。『これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした』。私も10回以上引っ越し、様々な状態や環境を経験しましたが、旅と捉えるならさもありなんと思えます。地上をどれだけ転々としようと、同じ場所にどれだけ長く住もうと、アブラハムも私たちも地上では旅人といえるのです。

葬りの場所は希望の場所

『わが主よ、お聞きなさい。あなたはわれわれのうちにおられて、神のような主君です。われわれの墓地の最も良い所にあなたの死人を葬りなさい。その墓地を拒んで、あなたにその死人を葬らせない者はわれわれのうちには、ひとりもないでしょう』と近所の人々。アブラハムは『マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は、畑も、その中のほら穴も、畑の中およびその周囲の境にあるすべての木も皆』購入しました。人々の故人を大切にする思いやアブラハムの故人のために惜しまない姿が記されます。この場所がアブラハムの生涯で手に入れた唯一の土地。神様はアブラハムに多くの子孫と広大な土地を約束されました。しかし祝福は一朝一夕にしてならず。彼らは子々孫々の祝福を夢見ながら葬られていきました。葬りの場所は希望の場所でした。私たちの人生も旅なら、このような葬りの場所があれば幸いではないでしょうか。単に遺骨のおさまる場所、悲しみの場所、最期の場所ではなく、やがて実現される祝福を思い起こし、はるかに望み見て喜び、懐かしむ場所となるのです。

地上の死は永遠の祝福の始まり

この葬りの場所にはアブラハム、息子イサクとその妻リベカ、孫ヤコブとその妻レアも葬られました。ヘブル人への手紙にはこう記されています。『もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである』。これを実現されたのはイエス・キリストです。キリストは十字架で死んでよみに降られ、神様の祝福を望みながら死んでいった人々を引き連れて、天に帰られました。旧約聖書の「天」に対して新約聖書の「天国」「都」が空間的広がりを見せるのはこのためです。キリストが天に帰られてからは、信仰者は召されればよみに降らず天国へ行くことができるようになりました。さらに天国は、今の世界に代わって新しい天と地というかたちをとり、アブラハムをはじめ信仰者たちに復活の体と共に、永遠の相続地として与えられるのです。

旅にアクシデントはつきもの。しかし旅の魅力は失せることはありません。世界の大きさと豊かさを教えられ、知識や経験や絆を広げてくれます。人生の旅も同じ。神様の大きさと豊かさを教えられ、私も私たち教会も成長するのです。永遠の祝福への期待がますます高鳴るのです。永遠の都を目指して一歩一歩大切に歩ませていただきましょう。

10月29日(日)の礼拝は、創世記第24章1節〜67節から、「契約に基づく神の愛」と題してメッセージです。


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