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祝福のリレー

運動会のリレー。勝敗は最後までわかりません。バトンを持つ者は自分の走りに全力を尽くします。バトンを待つ者は「ここにいるよ!」とアピールします。そうやってバトンはアンカーまで渡され、アンカーがゴールテープを切った時、そこで初めてチーム全員が勝利の喜びにわき返ります。最初の者も、途中の者も、最後の者も共に等しく喜びを分かち合います。聖書の祝福の物語もこれと似ています。ということで、11月5日(日)の礼拝は、創世記第25章1節〜34節から、「祝福のリレー」と題してメッセージでした。

祝福のバトンを示す終活

25章は祝福の広がりと継承がテーマです。ここでアブラハムはケトラという女性と結婚したことがわかります。妻サラが死ぬ前だったのか死んだ後だったのかはわかりません。聖書はケトラによるアブラハムの子孫がエジプトの東南地域に広がったことを記します。さらにハガルによるアブラハムの子イシマエルの子孫がエジプトの東地域に広がったことを記します。これらの子孫は後にヨセフやモーセの物語で重要な役割を果たします。祝福は徐々に広がりを見せていました。アブラハムは神様から祝福のバトンを託された人でしたが、175歳で地上の人生を閉じました。75歳から100年間、祝福のバトンを持って走り続けたと言えます。その葬りに立ち会ったのはイサクとイシマエル。聖書には記されませんが、イサクの息子たちエサウとヤコブも立ち会ったはずです。すでに15歳になっていましたから。この時、アブラハムの子も孫もアブラハムの何を見たか?神様から託された祝福のバトンではないか?次は私が祝福のバトンを託されたと自覚したのではないでしょうか。私たちにもアブラハムのような弱さや愚かさがあります。しかし神様はそれを覆って余りある祝福のバトンを託して下さいます。私たちも死の間際まで変わらずに、祝福のバトンを示す者とさせていただきたい。それが私たちの終生の活動なのです。

祝福のバトンを受けつぐ者

アブラハムの葬りの後、時間的には前後しますが、イサクの子どもたちの誕生が記されます。イサクの妻リベカは双子を生みます。兄エサウは赤くて毛深く、その意味のエサウと名づけられます。弟ヤコブはエサウのかかとをつかんで出てきたので、その意味のヤコブと名づけられました。しかし「だます」という意味も隠れていたり。『さてその子らは成長し、エサウは巧みな狩猟者となり、野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた』。しかしヤコブは一見穏やかに見えて、実は決して穏やかでなく、周りを穏やかにさせないくせ者でした。しかしこの『穏やかな』という言葉は「完全な」とも訳せます。どこがやねん?かつてノアは「全き人」と記され、神様はアブラハムに「全き者であれ」と言われました。ノアもアブラハムも完璧な人という意味では完全ではありません。聖書が言う完全な人とは、神様に向いて聞いて従う人、神様の恵みに生きる人、そして神様の祝福にまっしぐらな人です。ヤコブは神様の祝福にトコトンこだわり、ひたすら求める人だったのです。その兆候が早くも現れました。ヤコブは兄エサウの長子の特権に目をつけて、エサウが腹を空かせて帰ってきた時、自分の作ったスープと引き替えに長子の特権をまんまと手に入れました。ヤコブは自分の力で神様の祝福をものにしようと執念を燃やしていきます。それは決して正しい求め方ではありません。しかし祝福のバトンを誰よりも意識していました。だから神様もヤコブにトコトン向き合い、じっくり取り扱っていかれます。私たちはヤコブの間違った求め方ではなく、そのひたむきさに学びたい。神様の祝福を求めて止まないひたむきさ。それが祝福のバトンを受けつぐ者の普遍的な姿なのです。

アブラハムやヤコブたちと共に、新しい天地における祝福を一斉にいただく喜びの日を楽しみに、私たちも信仰の馳せ場をひたむきに走らせていただきましょう。

11月12日(日)の礼拝は、創世記第26章1節〜35節から、「共にある神にまさるものなし」と題してメッセージです。


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