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愛の手紙

ある牧師の研修でこんな話を聞きました。「組織(教会も含む)において、信頼関係を築くには時間がかかる。しかし信頼関係を失うのは一瞬。信頼関係を修復するのは困難だ」。で、その先は?教会はその程度のものか?信頼を修復していったケースや恵みはないのか?問題を起こさないように、ではなく、問題を乗り越えていく話しを聞きたい!研修から帰って聖書に向き合った時、コリント人への手紙が示されました。ということで、6月10日(日)の礼拝は、コリント人への手紙第2章1節〜11節から、「愛の手紙」と題してメッセージでした。

喜びを期待する愛

前回、パウロの旅程変更について触れました。その理由が記されます。それは『喜ばせてくれるはずの人々から悲しい思いをさせられたくない』ためでした。『わたしが悲しませているその人以外に、だれがわたしを喜ばせてくれるのか』と続けます。それらの人々が誰かはわかりません。第一の手紙には『サタンに引き渡してしまった』ような人が登場しますが。私たちは自分が全く気づかない問題を他人から指摘されてすぐに受け入れられるか?拒絶逆ギレ反応がないか?独り冷静になって受け入れられるようにならないか?ではどうすればいいだろうかと前向きにならないか?パウロがコリント教会に乗り込んで「これが問題、あれが問題、こうしろ、ああしろ」とたたみかけてばかりなら、一方的なやらされた感が募らないか?拒絶、受容、再出発、というプロセスを自ら踏めるように距離を置いた。自ら取り組むことで成長がある。喜びがある。その喜びは本物。パウロはそんな喜びを共有できることを期待したのです。

ゆるしを勧める愛

パウロは関係がこじれた後「涙の手紙」をテトスに託しましたが、それによってコリント教会に変化が現れました。コリント教会が『その人』を自分のことのように悲しみ処罰したのです。どんな処罰かわかりません。第一の手紙には『あなたがたの中から除かねばならない』『そんな行いをした者を、すでにさばいてしまっている』『サタンに引き渡してしまった』ような人が登場します。が、ここではサタンの側に行きかけた人が立ち止まり悔い改めた!言葉を換えればその人が「真実」になった!教会に敵や悪役はいない。みな『喜ばせてくれるはずの人々』。問題の取り組みはみんなが神様の御元に回復されるため。パウロは『その人』を赦し、愛を示すよう『勧め』ます。実は『勧める』は『慰める』と同じ言葉。真実になった人を赦しと慰めでサンドイッチ!それが愛!第一の手紙ではパウロがコリント教会を離れていても共にその人をさばくと言いました。今度は離れていても共にその人を赦すと言います。パウロはコリント教会が経験しうる赦しと慰めを自分のこととして喜んだのです。

従順が示す愛

『わたしが書き送ったのも、あなたがたがすべての事について従順であるかどうかを、ためすためにほかならなかった』の『ためすためにほかならなかった』は「その練られた品性を知るためだった」と訳せます。従順とは自ら喜んで神様に従うこと。組織において、問題が起これば誰かに責任を負わせて切り捨て、リセットばかりだとどうなるか?同じ問題がまた起こる。組織に成長はない。世間の信頼を失う。パウロは『サタンに欺かれることがないため』『サタンの策略を知らないわけではない』と記します。教会が問題に飲み込まれて世俗化するか、問題を切り捨てて正論をぶつ原理主義的になるか、どちらに転んでも成長はない。サタンの思うつぼ。私たちはサタンの思うつぼにはまるのではなく、慰めの、真実な、愛の神様に喜んで従って問題を乗り越え、お仕着せではない、他人事ではない、本物の赦しと慰めと喜びを分かち合うのです。その姿を通して、教会は粘りに粘る神様の愛(練られた品性)を世に示すのです。

パウロは『あふれる愛』(アガペ:神の愛)を知ってもらうために手紙を記しました。パウロも、コリント教会も、現代の私たちの教会も、同じ神様の愛が土台です。問題を通してこの愛を分かち合い、ますますこの愛に至るのです。

6月17日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章12節〜13節から、「神の子でも」と題してメッセージです。


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