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神の子でも

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という書き出しのマルコによる福音書。当時「福音」と聞くと「戦いの勝利」をイメージしました。先に伝令が国に福音を伝える。伝令に褒賞が与えられる。やがて勝利した軍隊が戦利品を携え帰還。国が喜びに沸き返り分け前に与る。ではイエス様の福音とは何の勝利?どんな分け前が?マルコはイエス様の福音を受け取るために、私たちがまずすべきことを記します。罪を悔い改めてバプテスマに与ること。続いてイエス様がバプテスマを受けられることを通し、さらなるバプテスマの恵みを記します。バプテスマの恵みだけでも十分福音と言えそうですがまだ準備段階。さて今回はどんな恵みがあるのか?ということで、6月17日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章12節〜13節から、「神の子でも」と題してメッセージでした。

神の子キリストでも

イエス様は御霊(聖霊様)によって荒野に追いやられ、サタンの試み(誘惑)にあわれました。『荒野』という言葉は「捨てる」という意味がありました。人が住むに適さない、見捨てられ、見向きもされない土地。『獣もそこに』いましたが、当時は熊やヒョウ、オオカミ、鷲やハゲタカなど生息していました。そんな所に『四十日の間』。なんで40日?当時「40」という数字を聞けば思い出される聖書物語がありました。洪水の40日間の雨。モーセのシナイ山での40日間。イスラエルの荒野での40年間。士師や王の40年間の治世等。いずれにせよ、古いものが過ぎ去り、新しい何かがやって来る、始まる、ということを予感させました。イエス様の荒野の40日間も新しく何かが始まる前触れ。この40日間の内容はサタンの誘惑にあうことでした。その内容はマルコからはわかりません。ここから言えることは、天と地をつなぐ聖霊様が神の子イエス様を荒野に送り込んだということ。神の子イエス様でさえ獰猛な獣のいるような、見捨てられたような所も経験されたとうこと。神の子イエス様でさえサタンの誘惑から逃れられなかったということ。しかし神の子イエス様はどこまでも神の子として歩み通されたということです。

神の子とされた私も

それは神の子とされた私たちも同じ。「そんな荒野のような生活も、サタンの誘惑も嫌です!」と思われます?イエス様を知らずとも、バプテスマを受けずとも、荒野のような世界に、誘惑多い世界に、すでに生きていないですか?弱肉強食の競争社会。馬の目を抜く、しのぎを削る、食うか食われるかの人と人、企業と企業、国と国のせめぎ合い。強い者に富や権力が集中し、弱い者はますます悲惨な状況に追いやられている。依存性の強い誘惑にさらされている。戦争や環境破壊によって人が住むに適さないエリアが拡大している。獰猛な動物でさえ数を減らしている。もはや安全な場所はないのでは?私たちは変わりなくそんな世界にいる。しかし今までと決定的な違いがある。神の子とされた。イエス様と同じように、そしてイエス様と共に、父なる神様と聖霊様とつながっている。天からの命綱でつながっている。私たちもこの三位一体の神様の御腕、天からの命綱にしっかりつながっているなら、そこがどんな所であっても迷うことなく、誘惑に心奪われることもありません。そして必要なものを供給され、供給されたものを他に分かち合うまでになるのです(これも素晴らしい恵み、福音と言えそうですが、まだ始まっちゃいません)。

イエス様は天の王子席から「人間界は悲惨やね〜」と見物されていたのではありません。「人にはどんな悲しみ、傷み、憎しみ、怒りがあるのか、どんな誘惑があるのか、私はそれを知り、肌身に体験し、そして人を助け出そう」と、この世界に飛び込んで下さいました。単身ではなく、父なる神様と聖霊様につながって。その手始めとしての荒野の40日間だった。そして荒野から出てこられたイエス様には、私たち人類の救助者としての働きが始まろうとしていたのです。

6月24日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第2章12節〜第3章3節から、「キリストの手紙」と題してメッセージです。


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