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主の愛に抱きしめられる者

私はかつて「神様は怖くて厳しいお方」だと思っていました。罪を犯してはならない。間違ってはならない。正しくなければならない。救われても罪を犯すなら救いもどうなるかわからない。もう愛されないのではないか。救われても不安。しんどい。うれしくない。でも信仰を捨てるのは怖い。私は勝手にそんな神様を想像し、罪を犯しやすく弱くて脆い「土の器」である自分ばかりに目を向けていました。パウロは『キリストの愛がわたしたちに強く迫っている』と記します。「キリストの愛が私たちをギュウッと抱きしめている」とも訳せます。神様は、主キリストは、どんなお方か?ということで10月14日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第5章11節〜15節から、「主の愛に抱きしめられる者」と題してメッセージでした。

主のまなざしに生きる者

『このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。わたしたちのことは、神のみまえに明らかになっている』。パウロも主は恐ろしいって言ってるやんか!これは前の段落の『さばきの座』という最後の審判のことを受けています。クリスチャンはすでに復活の体をいただいて、新しい天と地に入る用意ができいます。天国か地獄か?宣告の場ではなく報酬を受け取る場。恐れる必要なし。しかしクリスチャンでない場合、天国か地獄か?宣告の場。それは恐るべき。でも主が怖いのでも厳しいのでもない。主の救いを聞いていながら拒絶した、その人の選択と責任が問われるのです。どんな人も、主の前にはいつでも全てが明らかです。やがて明らかになるのではなく、今すでに明らか。主はいつも目を注いでおられる。睨みつけ監視しておられるのではありません。「早く私の測り知れない力を受け取り、永遠の重い栄光を目当てに歩み、神の子としての喜びと誇りを持って生きてほしい」という、愛のまなざしを注いでおられるのです。

主の懐に生きる者

『もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるなら、それはあなたがたのためである。なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである』。キリストの愛とは、死を燃料に命を生み出す力、しばらくの軽い患難を燃料にあふれるばかりの永遠の重い栄光を生み出す力です。この愛のおかげでパウロはどんな患難も乗り越えて福音を伝えました。しかしコリント教会に入り込んだ自称教師は、そんなパウロを「気が狂っている!」と言ったのです。自称教師たちにはパウロのまねができない。主の力も愛も知らないし持ち合わせていないから。文句を言うのが精一杯。この愛は神の愛。人間の理解を超える愛。だからある人には『気が狂っている』となる。しかしこの愛は人間のためのもの。パウロは熱くとも冷静に丁寧に人々に伝えようとした。だからパウロは『気が確か』なのです。主は愛のまなざしを注いでいるだけではありません。私たちのために十字架で傷つき、血を流し、死んでよみがえり、両手を広げ、懐で私たちを赦し癒やし神様の力と愛で満たしたいと願っておられるのです。

主のために生きる者

『ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである』。『ひとりの人』『彼』とは主キリストです。全ての人のために死なれたということは私のためにも死なれたということ。その事実を信じるなら私はもはや自分の罪のために死ぬ必要はない。でも体は一度死ぬ。何のため?新しくよみがえるため。死を燃料に命を生み出す力に与っているから。だから残りの人生は、主が生きるはずだった地上の人生を私が身代わりに生きる。そんなことしたら自分の人生じゃなくなる?いえ。第3章でキリストの内に私の全てがあることを学びました。キリストのために生きるとは、キリストに向いて聞いて従うこと。キリストに向く時、そこに私がある。私を生きるためにもキリストに向いて聞いて従う。それがキリストのために生きること。そしてキリストに向き続ける時、主は私をギュウッと抱きしめ続けて下さるのです。

かつての私は、主に向かないで、自分ばかり見つめてさ迷っていました。主が十字架にかかる直前、不当な裁判を受けておられる時、ペテロは三度主を否定しました。その時、主はペテロを見つめられた。私はそのまなざしに釘付けになりました。睨みつけるのでも、恨んでいるのでも、怒っているのでもない。「あなたのために、これから十字架にかかりに行く。あなたの罪の赦しのために。あなたが神の子となるために」そう語りかけられました。弱いままでいい。欠けだらけでいい。罪の泥んこのままでいい。主のまなざしと懐にそのまま飛び込んだらいい。その懐で罪拭われ、主だけを見て、主の心を共に行えるのです。主以外の何者も、罪も、入り込む余地はないのです。

10月21日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章21節〜28節から、「権威ある新しい教え」と題してメッセージです。

 


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