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安息日の主

皆さんにとって法律とはどんなものでしょうか。身近にある大切なもの。でも文言は難しく堅苦く窮屈そう?「法律は破るためにある」と抜け穴を探す人もいます。すると抜けられないように新たな法律ができます。するとまた抜け穴を探し、またそれをふさぐ法律ができ…と終わらない。どんどん窮屈になり自由がなくなる。さて。2千年前のユダヤ社会。たくさんの律法がありました。ユダヤ人が律法を破るからたくさんあったのではありません。彼らは真面目でした。旧約聖書の律法をもとにあまたの律法を生み出し、生活の細部にまで入り込ませていました。そんな社会にイエス様は来られました。そんなある安息日。事件が起きた。ということで、8月18日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第2章23節〜28節から、「安息日の主」と題してメッセージでした。

律法の本質は何か

イエス様ご一行は、安息日に麦畑の中を通り、弟子たちは穂を摘んで食べていました。その行為を見たパリサイ人(律法学者)が『いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか』と質問しました。イエス様は聖書にあるダビデ物語の一つのエピソードで答えられます。イエス様は「ほら!ダビデもしてはいけないことをしているじゃないか!祭司もそれを認めているじゃないか!」と、律法破りの口実に聖書を悪用しておられるのではありません。律法は字義通り守っていればそれでいいというのではない、と言いたいのです。律法は本来、神様と私たち、私たちお互いの関係を喜び楽しみ、お互いの尊厳と自由を守るためにあった。律法は本来、人を断罪して縛る檻ではなく、人が自由でいられるように守るための、ボディーガードの役割があったのです。

安息日の本質は何か

パリサイ人はイエス様ご一行につきまとっていました。今までイエス様は度々、安息日に医療行為(病の癒しや悪霊の追い出し)をしていたから。安息日に仕事はダメ!という律法を破っている要注意人物。だからマーク!今回は何が問題か?他人の畑のものを食べたこと?空腹の時や、在留外国人や寡婦の場合は、手で摘む程度ならよしとされていました。問題はそれが安息日だったこと。手で摘むのも仕事。安息日はダメ。パリサイ人は、癒されることも、空腹を満たすことも安息日にはあいならん!と言うのです。安息日は本来、神様と私たちが喜び楽しむためにあった。その交わりの中で、私たちが癒され、元気になり、多くの人をもてなす。解放され、自由を取り戻し、分かち合う。安息日も私たちを縛る檻ではない。律法は「どうぞ安息日を楽しんで下さい。我々があなたと安息日をお守りします」と人と安息日に仕えるためにあった。パリサイ人がしゃしゃり出てきて律法を振りまわして支配する権威はない。逆に彼らこそ、上から目線で冷たく断罪していないで、安息日に人を助け、励まし、もてなすべきではなかったか?イエス様はそうされたのです。

イエス様は何者か

『それだから、人の子は安息日にもまた主なのである』。『人の子』とはイエス様ご自身です。『主』とは当時、ローマ皇帝を意味しました。「ローマの平和」と言われる世界を造り出し、「世界の道はローマに通ず」と言わしめました。しかしイエス様こそ『主』。この言葉はマルコによる福音書では2度目の登場。1度目は『荒野で呼ばわる者の声がする、「主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ」と書いてあるように』。「神の平和」をもたらすのはイエス様。そして全てはイエス様に通じるのです。イエス様は天地創造の前から神の子としておられました。そして天地が創造され、次に人が造られ、さらに安息日が設けられ、随分後に律法が与えられました。だから全ての源はイエス様。その心も本質もみなイエス様にある。でもその道筋を私たちは失った。律法が先で、次に安息日、人、最後に神様。いや神様に行き着かなくなった。「形骸化」。心を失った形だけにこだわるようになった。それはパリサイ人に限らない。私たちはギスギスした自由のない窮屈な世界を作り上げ、それに抗う自由の拳を振りまわす世界も同時に生み出している。コントロールしているようでコントロール不能ではないか。イエス様はそんな世界や私たちの本来の姿を取り戻すため、安息日や律法の本質を回復するために来られた。イエス様こそ全てのものの創造『主』だから。

「俺がルール」なんて言葉があります。ルールなのにわがまま勝手なイメージ。私たちは的外れでご立派な主張をいろんな場面でやらかしていないか?自分が好む律法(時に聖書の一文だったりもする)で人を縛ろうとしたり、自分に都合のいい自由に人を取り込んでいないでしょうか。「俺が支点」の場合、それは右に左に大きく振れるているだけです。支点はイエス様。そこが私の始点。そこにいつも戻る。いつも従う。イエス様こそ人をゆるし解放し、癒し回復し、自由にする安息そのもののお方なのです。

8月25日(日)は教区講壇交換礼拝で、鎌野善三牧師(西舞鶴教会牧師)が、エペソ人への手紙第1章3節〜14節から、「神をほめたたえよう」と題して、メッセージです。


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