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幸い。極限でも交われる祈り

御利益。何かいいことをすれば、真面目に正直に生きていれば御利益がある。これだけ献金すれば、修行すれば御利益がある。この教祖様、あの神様を信じれば御利益がある。反対に何か悪いことをすれば悪いことがある。罰が当たる。当然の報いを受ける。献金しないから、修行しないからだ。この教祖様、あの神様を信じなかったからだ…そんなふうに考えたりしません?クリスチャンもそんな考えが支配的になりません?神様を信じるとは、そんな損得勘定や恐怖心からするものか?ということで、10月6日(日)の礼拝は、詩篇第6篇1節〜10節から、「幸い。極限でも交われる祈り」と題してメッセージでした。

そこに極限状態がある 1-3節

この詩篇は伝統的に「悔い改めの詩篇」と言われます。ダビデは若い頃から神様を信じる人。そして王様にまでなった。しかしいいことずくめではありません。彼自身に弱さや問題があり、様々な問題がいくつも降りかかり、その立場や権威を私欲のために使う誘惑もありました。ダビデはここで『わたしは弱り果てています』『わたしの骨は悩み苦しんでいます』『わたしの魂もまたいたく悩み苦しんでいます』と激しい苦痛を訴えます。体も骨(心の詩的表現とも)も魂も貫く苦しみ・病です。それはダビデが何らかの罪を犯したゆえの神様からの罰なのか?古今東西、あまたの天災、人災、悲惨があります。そこにはクリスチャンもいれば教会もある。神罰か?神は見放したのか?と思える極限状態。自分に問題があったのか?他の誰かに問題があったのか?何が原因だったのか?自分を責め、他人をさばき、神様に文句を言いたくなる。ダビデもまさにそんな極限状態。しかし彼はいい子ぶることなく、その引きちぎられるような思いや感情を、混乱した自分の心を、包み隠さず、赤裸々に、他の誰でもない、神様にぶつけたのです。

そこに涙がある 4-7節

この詩篇は「悔い改めの詩篇」か?ダビデのことです。罪があればはっきり悔い改めるはず。理由が分からないからこそ悩み苦しむ。『懲らしめないでください』『あわれんでください』『いやしてください』『命をお救いください』『助けてください』と手当たり次第に訴える。ダビデが最も恐れたのは『死においては、あなたを覚えるものはなく、陰府においては、だれがあなたをほめたたえることができましょうか』です。神様が恐ろしいのではなく、神様との交わりを断たれることを恐れた。ダビデは涙の誇張表現でそれを訴えます。泣くとストレスホルモンが軽減され、副交感神経が刺激され、痛みが和らぎ、免疫力が上がり、リラックスする。しかも相手に共感する涙こそ効果がある。これも神様の創造のわざ。神様は私たちを問題の何もない温室で育てるのではなく、痛みや悲しみを感じること、極限状態の中で悩み苦しむことも許しておられるようです。それは誰かのために共感できるようになるため。神様は、災いの外にいて「それは天罰だ」「祈らないからだ」「信仰が足りないからだ」と、災いの中にある人に対して傲慢になる人ではなく、災いの中にある人に共感し、共に問題に向き合う人になってほしいと願っておられるのです。

そこに交わりがある 8-10節

雰囲気ががらりと変わります。確信に満ちています。ダビデは涙を流して訴える中で、落ち着き、心が整理され、何が問題か見えてきました。『すべて悪を行う者』『わたしの敵』です。彼は神様に任命された王でしたが、それを良く思わない人々のデマや揚げ足取りやクーデターなど、様々なストレスにさらされていた。そういうことに体も心も魂も振りまわされ、神様が遠くに行ったか、いなくなったかのように感じていた。しかし。彼がどう思い、どう感じようと、神様はいつも変わりなく側にいて、向き合って下さっていた。ダビデはそのことに気付いた!私たちの涙・鼻水・よだれの伴うようなグダグダや悩みにも、共に向き合ってくれる相手があれば心強い。そういう相手に向かって心を開き語り合う時、事の真相が見えてくる。進むべき一歩が見えてくる。立ち上がる力が湧いてくる。そんな相手としての原点・始点・源が神様。私たちにとって最も大事なのは、この神様との交わり、この神様との交わりを知った者同士の交わりなのではないでしょうか。

神様は私たちを愛しているからトコトン向き合っておられるのです。御利益や恐怖心でつながったり切れたりする関係ではありません。私たちはどんな中にあっても、いつもこの神様の交わりに帰り、根ざし、分かち合うのです。これほど心強い交わり、これほど幸いな交わりはないのです。

10月13日(日)の礼拝は、詩篇第7篇1節〜15節から、「幸い。神にさばきを求める祈り」と題してメッセージです。


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