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あなたは何に支配されているか

「支配」にどんなイメージがあるでしょうか。弱い者を力でねじ伏せ、何もかも奪い取ってしまう。そんなネガティブイメージがあったりもします。そんなネガティブイメージの支配は、実は身近で様々な人間関係の中に、巧妙な形や姿で入り込み、問題を起こしています。それは昔も今も変わりません。マルコによる福音書は『神の子イエス・キリストの福音のはじめ』で始まりました。この『はじめ』は「支配」という言葉です。イエス様の福音の支配がどんなものかをマルコは綴っていきます。そして今日の箇所も支配のお話し。ということで、2月16日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第3章20節〜30節から、「あなたは誰に支配されているか」という題でメッセージでした。

取り押さえようとする身内

イエス様は忙しくなりました。そこで弟子たちを選ばれました。さらに働きは拡大しますます忙しくなりました。そんなイエス様の噂を聞いて『身内の者たち』がやってきました。イエス様の母や弟や妹たちです。イエス様の手助けをするために来たのではありません。『気が狂ったと思ったから』『取り押さえに』来ました。『取り押さえ』とは「支配する」という言葉。そして「気が狂う」とは「正常な位置から外れる」という意味。「母さん!兄さんやばいよ。騒ぎが大きくならないうちに連れ戻そう!」兄は正常じゃない!俺たちこそ正常だ!いえ。彼らは世間体を気にしました。イエス様の働きを自分の目で確かめることなしに、自分たちの常識の中に取り戻し、支配しようとしました。自分たちのメンツと安心のためです。「ああしなさい、こうしなさい。こうあるべきだ。あなたのために言ってあげている」。善意のようで実は自分の常識の範囲に収め、自分が安心するため。私たちにもそんなことがないか?

批判する他人

『エルサレムから下ってきた律法学者』がイエス様を批判しました。悪霊を追い出し、人をいやし解放することは良いことです。「悪霊から解放されて良かったね!イエス、君は若いのに良いことをしているね、ありがとう」と喜べるはずです。しかし。『彼(イエス)はベルゼブルにとりつかれている』『悪霊のかしらによって、悪霊どもを追い出している』と批判する。ベルゼブルとは当時、サタンを指す言葉であり、「住まいの主」という意味もありました。とにかく。悪霊さんたちが身内で猿芝居をしているだけだと言うのです。律法学者は支配者でした。自分たちが築き上げた常識・秩序・テリトリーが、突然登場した得体の知れない若造に壊されていく。良いことが行われていても喜べない。自分にできないから、自分にはないから、自分が支配できないから嫉妬する、陰口を言う、口撃する。それでいて自分のするべき事をしない。足を引っ張るようなことをする。殺意さえ抱く。私たちにもそんなことがないか?

自分は何に支配されているか

イエス様は律法学者を『呼び寄せて』、身内が争うなら自滅するだけだということを、サタンや国や家族を例に話されました。「お家騒動」なんて言葉があります。国という大きな「お家」から家庭という個人的な「お家」まで、今も様々な問題で揺れています。イエス様は「家に押し入る強盗」のたとえ話もされました。家の中で一番強い人を縛り上げなければ家財を奪い取ることはできない。話の流れ上、この『強い人』はベルゼブル「住まいの主」と重なります。ではベルゼブルを縛り上げるのはイエス様?ではイエス様が家財を奪い取る?家は私たち。その心を何が支配しているか?自分?悪霊?律法学者のような第三者?プライド?トラウマ?お金?嗜好品?ドラッグやギャンブル?自分が支配していると思っていても、いつの間にか自分でないものが、入れ替わり立ち替わり支配していないか?そして自分にとって本当に大切なものを奪われ、失っていないか?

律法学者は『聖霊』を『けがれた霊』呼ばわりしました。イエス様は彼らに『よく(アーメン)言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる』と言われました。優しい?確かにイエス様はそのために十字架にかかられるのです。しかし『聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる』と言われます。優しくない?聖霊は神様とイエス様と私たちをつなげる窓口です。聖霊なくして私たちの信仰告白も洗礼による神の子としての誕生もありません。聖霊を否定することは罪の赦しも救いも断固拒否しているも同じ。永遠に自らを罪に定めているのです。イエス様は律法学者を弟子たちと同じように『呼び寄せ』られました。でも彼らは従わなかった。人が解放され癒されることを喜ばなかった。指一本手助けしようとしなかった。彼らこそ、その心を支配していたものは何だったのか?

イエス様は奪うために来られたのではありません。取り戻すために来られました。様々なものに支配され、心奪われ、我を失っている私たちを。私たちが本来の自分を取り戻し回復し成長するために「支えて」下さいます。そのために必要な恵みを「配って」下さいます。それがイエス様の「支配」。寄り添い励まし力づけ、あなたがあなたらしく立ち上がれるようにして下さるのです。

2月23日(日)の礼拝は、詩篇第12篇1-8節から、「幸い。主の言葉で確かになる」と題して、メッセージです。


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