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魂に至る休み

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子どもたちの夏休み(リフレッシュ)が終わりました。子どもの夏休みほどではないにせよ、私たちも様々なリフレッシュ方法を工夫しているのではないでしょうか。美味しいものを食べる。お友達とおしゃべりする。読書する。海や山、知らない町をふらっと訪ねる…。しかしそういうリフレッシュ方法では休めない領域があります。それが魂。聖書は私たちが体と心と魂からなると語ります。その一番深いところ。魂に至る休みとは?ということで、9月4日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第11章28節〜30節から、「魂に至る休み」と題してメッセージでした。

まず、重荷をイエス様に持っていく

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。律法の厳しい社会に生まれ育ち、律法を守るのに疲れ果てた人々に向かってイエス様は語られました。どんな社会か?たとえば安息日に「してはいけないこと」が山ほどありました。守らなければ罰せられます。休みなのに全く休まりません。しかしイエス様は安息日に人を癒やし、癒やした人に布団を片づけるように言われ、空腹の時に麦の穂を摘んで食されました。これらはいずれも「仕事」に当たるので安息日には禁じられていました。律法の先生方はイエス様を非難しました。安息日は本来、神様の前にくつろいで楽しんで元気になる日。なのに本末転倒になっていた。そして律法の先生方は人々が苦しんでいるのに平気な顔をしていました。このように重荷とは、その人が負いきれないような荷物を、他人から押しつけられ、ずっと背負わされているような状態です。私たちが生まれ育った家庭環境や社会環境、人間関係の中に、このようなずっと背負わされてきた重荷、身につけてきた重荷はありませんか?その重荷をイエス様に持っていく。「もうしんどいです」「無理です」「なんとかしてほしい」。重荷を自覚して告白するのです。

次に、イエス様とくびきを負う

「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」。重荷をおろすだけでは十分ではありません。なぜなら長い間重荷を負っていたために、知らず知らずのうちに、ものの見方や感じ方や行動に「歪み」が生じているからです。歪みが痛み、生活や人間関係に支障を来すのです。イエス様はその歪みまでも癒やしたい。「くびき」とは二頭の牛をつないで畑を耕したり荷物を引いたりするときに使う道具です。ベテランの牛と経験の浅い牛をくびきでペアにすると、経験の浅い牛は最初違和感を感じますが、やがてベテランの牛の動きを心得るようになります。イエス様とくびきを負うとは、イエス様のものの見方や感じ方や行動に学ぶことです。それは一朝一夕にはなりません。時間が必要です。重荷に歪んだ自分を恥ずかしがらず隠さないで、力みを抜いて、がんばりを置いて、イエス様に学ぶ。どんな歪みがあるか教えられる。そして歪んだ自分から少しずつ解放されていく。さらに歪む前の本来の私に回復されていく。体と心と魂がスーッとまっすぐにされていくのです。

さらに、イエス様と軽い荷を引く

「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。くびきは仕事の道具です。道具は使いこなす人にとって自分の手足のようなもの。自分の力をいかんなく発揮できます。イエス様のくびきに慣れてくれば、今度は仕事が出来るようになります。しかも一人で仕事をするのではなくイエス様と一緒。そして重荷ではなく軽い荷を引くことが仕事。私はかつて、介護の仕事をはじめて間もなく、腰痛になり1ヶ月ほど休業しました。ゆっくり休んで痛みが取れるとリハビリが始まりました。自分の体の歪みを知り、メンテナンス方法を学び、仕事に復帰しました。以前と同じ職場です。しかし自分の体が違うだけで、仕事の様子がまるで違うのに驚きました。仕事がとても充実したものになりました。これと同じように、かつて重荷と感じた家庭環境や社会環境、人間関係が同じであっても、自分が変えられることで、全く違う感覚で向き合ったり、取り組んだり出来るようになるのです。自分のものではなかった重荷のような日常から、自分が取り組むべき日常へと変えられるのです。イエス様は単なる休みではなく、魂の喜びに至る休みを与え、活き活きと立ち上がれるまで導いてくださるのです。

9月11日(日)の礼拝は、創世記5章1節〜32節から、「永遠の命は特別なのか」と題してメッセージです。


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