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信じて見る

「この目で見ないと信じない」とはよく聞く言葉です。自分の目で見て、または自分の五感で体験できたら信じられるし一番確かだ。しかし目に見える範囲、五感で体験できる範囲は限られています。年齢や体調、意識や関心、環境や文化の違いでも受け止め方は変わります。本物と見紛うフェイクもあふれています。逆に自分の目や感覚では捉えきれない世界の方がはるかに大きいわけです。その広大な世界の流れや動きの中で私は生きているし生かされている。そんな中で「この目で見ないと信じない」と主張する私って?11月15日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第5章35-43節から、「見て信じる」のではなく「信じて見る」というお話しです。

信じ続けなさい 5:35-39

会堂司ヤイロの登場です。会堂の管理だけではなく礼拝の司会者のような役割もしていました。イエス様はガリラヤ湖周辺の会堂で礼拝を守られたので、ヤイロはイエス様のことを知っていたでしょう。ヤイロの『幼い娘』が死にかかっていました。『どうぞ、その子がなおって助かりますように(救われて生きられますように)、おいでになって、手をおいてやってください』(23)。この出来事の途中、長血をわずらった女性が「なおしてほしい(救ってほしい)」とイエス様にタッチした時と同じ言葉が使われています。ヤイロは「死んだら終わりだ。だから生きている内に救ってほしい」と思っていました。娘死亡を告げに来た人々も同じです。『このうえ、先生を煩わすには及びますまい』と言っているからです。死んだらイエス様でも無理!?しかしイエス様はその言葉を『聞き流し(聞いても従わない)』ました。「ああそうですか。残念です。では行くのはやめましょう」と引き下がるのではなく、『恐れることはない。ただ信じ(続け)なさい』とズンズン進んで行かれました。家では人々が泣き騒いでいました。イエス様は『ごらんに(観察する)』なり、冷静に『なぜ泣き騒いでいるのか。子どもは死んだのではない。眠っているだけである』と言われました。人々は「あほちゃうか?確実に死んでるやん」と言わんばかりに嘲笑いました。ヤイロを始め多くの人々が願う「救い」とは、単に病気が治ることではないか。そして死んだら終わりだと思っていないか。イエス様が見ておられる本当の救い、本当の死と大きな違いがあるように思えないでしょうか。

信じ続けた者だけが見る 5:40-43

イエス様はズンズン進んで行かれます。最初はひしめき合うほどの人々が取り囲んでいましたが、娘死亡の知らせ以降、ついてくるのはペテロ・ヤコブ・ヨハネの弟子たちに絞られ、家で騒ぐ人々も外へ出てもらい、ヤイロ夫妻と3人の弟子のみ家の中へ、さらに娘の部屋へ。奥へ奥へさらに奥へ。野次馬や騒ぐ人はいなくなり、ついていく人はごくわずか。イエス様は『子どもの手を取って「タリタ・クミ」…「少女よ、起きなさい」と言われ』ました。『手を取る』とは「支配する」「自由にする」「得る」という言葉。『起きなさい』とは「目を覚ましなさい」「よみがえりなさい」という言葉。ここにイエス様の救いの何たるかが凝縮されているようです。子どもは12歳。長血をわずらった女性は12年間病で苦しみました。あの娘とこの娘。いずれもイエス様の救いに触れたのです。イエス様は『だれにもこの事を知らすなと、きびしく彼らに命じ』られました。なぜ?メッチャ嬉しいしみんなに言いたいし、言えばイエス様のことをみんな信じるやん。言わなくても娘が外に出ればみんなにわかることやん。なのになぜ?それは「神の国の奥義」だからではないか。イエス様は人々に『娘は眠っているだけ』と言われました。だから人々は「死んでなかったんだ」と取るかもしれません。イエス様は福音をまだ明らかにはされていない。イエス様の復活で明らかになる。でもその時、弟子でさえ信じなかった。イエス様の数々の奇跡を見、イエス様の復活を見ても信じるわけではないのです。イエス様を信じ続ける者だけが見る。イエス様についていく者だけがわかる。それが神の国の奥義。イエス様は自分が信じて見たことを、まず自分の心にしっかり留めるよう促されたのではないでしょうか。

長血を患った女性もヤイロの娘も癒されましたが地上の人生は終えています。それは私たちお同じ。でもそれで終わりではない。イエス様はその先を見て私たちを導かれます。イエス様はこの世界の創造者であり新しい世界の創造者。私たちの創造者であり新しい世界への救い主。娘よ息子よと導かれます。この世界も広大ですが新しい世界も広大。その両方を体の死(本当の死もいつか学びます)を越えてズンズンと進んでいき、豊かに味わい、永遠に楽しむために、イエス様を信じ続けましょう。イエス様についていく者だけが神の国の奥深い世界を鮮やかに見ることができるのです。

11月22日(日)の礼拝は、詩篇第23篇1-6節から、「幸い。恵み主が共に」と題してメッセージです。


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