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十字架に向かう賛美

歌は人生につきもの、「ノーミュージック、ノーライフ」という方もあるかと思います。私たちの礼拝には賛美がつきもの。教会にとって「ノー賛美、ノーライフ」。音楽的な賛美とは限りません。朗読して、作って献げることもできます。旧約聖書には詩篇をはじめとする詩歌があります。当時はいろんな楽器・調べがあり、神殿では祭司・レビ人が演奏し、歌い、会衆も声を合わせました。人々はそれぞれの生活でも賛美(踊りも)しました。新約聖書の賛美の記述はそれほど多くありません。そんな中の一つが今回の聖書箇所。1月31日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第26章20-35節から、「十字架に向かう賛美」と題してメッセージです。

目の前の現実はかくあれど 20-21節

楽しい晩餐のはずがイエス様の衝撃発言。『あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている』。弟子たちはみな『まさか、わたしではないでしょう』。イスカリオテのユダも。ユダは会計係で横領していました。またイエス様を祭司に引き渡すために銀貨30枚を報酬として受けとっていました。ユダは根っからの悪人だったのか?イエス様が強大な奇跡的軍事パワーをなかなか発動しないのをじれったく思い、時の権力者の手が迫れば発動するのではないか?しかし無抵抗に易々と捕まり、思惑が外れ、無意味な人殺しに加担してしまったと自責の念に駆られ自殺…と考える人もいます。しかしユダだけを責めるわけにはいきません。他の弟子たちもみなイエス様を見捨てて逃げ出した。特にペテロは酷い。『たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません』『たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません』と豪語。イエス様にはそんな弟子たちの現実がよーく見えていました。でも悲観することも、ぶち切れることも、見捨てることもなく、賛美を歌ってオリブ山に向かわれた。そこで再開するユダになお、『友よ』と声をかけられたのです。

後の備えがあったから 26-28節

イエス様は聖餐を制定されます。イエス様の肉と血をパンとぶどう酒というかたちで私に取り込むことを体感する、イエス様と私が決して離れないことを体感する聖餐。今まで弟子たちはずっとイエス様と一緒だった。でも一緒にいても一つではなかった。だからイエス様は弟子たちとガッツリ一つになる聖餐の準備をされたのです。イエス様の肉と血、パンとぶどう酒は、イエス様が十字架にかかってはじめて命と罪のゆるしをもたらすものとなります。イエス様は目の前の弟子たちの現実ではなく、これからご自身がなそうとしておられる十字架のわざを見ておられました。この十字架が弟子たちを救い、立ち直らせ、変える。そしてイエス様が彼らの内に宿ることができる。私たちの現実も弟子たちとそう変わりません。自分の現実を見るなら賛美どころじゃない。目を向けるべきはイエス様の十字架。十字架のイエス様。聖餐によってそのイエス様を内にいただいたことを覚える。変化が始まる。希望があるのです。

なお喜びを望み見て 29-30節

イエス様は弟子たちの現実だけを見ておられたのではありません。その先の十字架による救いを見ておられました。さらに『わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日』を楽しみにしておられました。『わたしの父の国』は天国か?天国は新天新地を待つ霊なる私たちの待機場所。飲み食いするには新しい体が必要(飲み食いが必須かは?)。イエス様は私たちが復活の体をいただいて新天新地に入った後のことを望み見ておられるのです。惨憺たる弟子たち。陰謀渦巻くオリブ山。人間的にはお先真っ暗。BGMなら葬送曲。でもイエス様は悲壮じゃない。希望と喜びを抱いて十字架に向かわれた。翌日には十字架のわざをなし遂げ、その三日後にはユダの想像を超える圧倒的パワーで復活。これぞ真の王。ここからわかることは、賛美とは、父なる神様への全面信頼のあかし、神様のわざを先取りして喜ぶあかしなのです。

私たちにも暗澹たる現実やお先真っ暗な状況があります。自分にゲンナリすることもある。でもイエス様は、裏切るユダに『友よ』と向き合われたように、イエス様を否認するペテロに優しいまなざしを向けられたように、私たちにも手を差し伸べておられる。諦めない、優しい、大きなイエス様。私たちにはイエス様がおられる。漆黒の闇の向こうに希望がある。今よりももっとリアルな喜びが待っている。だから賛美しながら、イエス様についていく。ノー賛美、ノーライフ。賛美の人生こそ永遠の命に通じているのです。

2月7日(日)の礼拝は、詩篇第24篇1-10節から、「幸い。栄光の王が入られる」と題してメッセージです。


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