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あわれみ深い主の心

私が子どもの頃は高度経済成長期。同じ品質の工業製品が大量生産されるようになりました。それと同じように同じ箱物と同じ教え方で、同じ品質の人間が大量生産できる、と思ったか思わなかったか、「画一的な教育」と言われることがありました。今は1人1人の発達も理解も学び方も違うとし、個性を重んじ、それぞれに寄り添う教育が求められるようになってきているのではないでしょうか。イエス様もそんな寄り添う教師であり救い主。4月18日(日)はマルコの福音書6.30-44から、「あわれみ深い主の心」と題してメッセージです。

弟子への思いやり 6.30-32

『使徒』とは弟子たちです。彼らはイエス様に招かれ、イエス様についていき、イエス様の教えをくり返し聞き、みわざをくり返し見て来ました。そして宣教実習に派遣され、手応えのある働きをし、イエス様のもとに帰ってきました。弟子が本格的に使徒と呼ばれるようになるのは「使徒の働き」からですが、ここでは「一歩前進」という意味で使われているのかもしれません。イエス様は彼らに休むよう促されます。日本語に「退修」という言葉があります。前進して学び、退いて整えられる。運動して鍛え、静養して超回復する。イエス様は常に弟子を観察し、彼らに必要なことを提供しようとされるのです。

人々へのあわれみ 6.33-35

ところがどっこい。群衆が休ませてくれませんでした。イエス様たちは舟で移動しましたが、群衆は陸地を走ってイエス様の先回りをし、舟を迎えました。なんという熱烈な追っかけ!イエス様は湖岸に立つ群衆を見て『深くあわれ』まれました。深い悲しみや痛み、思いやりを言う言葉。人間を超える神のあわれみ。群衆には家族や生活、仕事があったはず。またユダヤ人ですから神様を信じ、聖書をよく知り、安息日には会堂で礼拝していたはず。表向きはちゃんとしている。でも心の中には空洞があり渇いている。その自覚はないけどイエス様に求めている。追っかけている。『飼う者のないひつじのようなその有様』。弟子よりも群衆の優先度が高い。そこで彼らには彼らにあったように、また教えられ始めたのです。

弟子へのチャレンジ 6.35-36

有名な「5千人の給食」と呼ばれる箇所です。弟子たちは「もういい加減にしてよ~」と思ったか思わなかったか、群衆の解散を提案します。しかしイエス様は『あなた方の手で食物をやりなさい』と言われます。弟子たちは『わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか』と、ちょっとキレ気味。ヨハネの福音書に詳細は載っていますが、マルコではイエス様の弟子たちへの気遣いに注意を払っています。弟子たちにパンがあるか見てくるように言われ、弟子たちに人々を組に分けて座らせ、弟子たちに裂いたパンや魚を配らせました。手とり足とりイエス様の奇跡を共有体験。そしてみんな満腹。弟子も満腹。おまけにパンと魚のいっぱい入った12のカゴつき。これって弟子たちの翌日分。深い思いやりじゃないでしょうか。

『安息日にも主』であるイエス様です。弟子たちは疲れているときだからこそ、今までの経験を活かし、イエス様に尋ね、委ね、従えばよかったのではないでしょうか。それが一番楽。そして安息なのです。拒否したりキレても始まらない。私たちみんなの憩いの場、退修の場、超回復の場はイエス様。そこから家族や生活や仕事の日常へ。日常においても手とり足とりイエス様のみわざを共有体験。イエス様は、私たちの気づきが遅くとも、鈍感でも、不遜にキレることがあっても、「まあ、これをやってごらん」「さあ、ここで休むんだ」と忍耐強く声をかけ、向き合い続けてくださる、寄り添う教師であり救い主です。弟子たちがやがて使徒となったように、イエス様は私たちも、主の働き人として教え、養い、用いてくださいます。

4月25日(日)の礼拝は、詩篇28.1-9から、「幸い。主に上げる声と手」と題してメッセージです。


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