カテゴリー

わたしにならう者となりなさい

dscf2362

パウロはコリント人への第一の手紙第3章の最後で「すべてはあなたがたのもの、そして神様のもの」と語りました。そして第4章で「あなたがたを生んだのは、わたしなのである」と語ります。この期に及んでコリント教会の人々を私のものだ!と言っているのか?いえいえ。そうではありません。コリント教会の人々は、パウロを通して「キリスト・イエスにあって、福音により」生み出されました。また養育掛としてのアポロたち他の教師も「キリストにある」養育掛です。父親役も養育掛も、神様からキリストにあって授かったもの。決してコリント教会の人々をパウロの所有物とするためのものではありません。逆に子が親を見て成長するように「わたしにならう者となりなさい」と懇願するのです。

神の前に忠実な者となってほしい

「私はパウロのものだ」「私はアポロのものだ」と教師自慢している人々は同時に教師批判もしていました。そして批判対象の教師の上に立ったつもりでいました。批判の全てが悪いわけではありません。批判を真摯に受け止めることも大切です。しかし信徒が牧師の支配者のように、また牧師が信徒の支配者のようになって要求したりさばいたりしていないか?それを当然のようにやっていないか?そしていつの間にかお互いの発言や感情に振り回されて、何が本質的なことか、何が神様の御心か、見失っていないか?パウロはそこがぶれないように注意を払い、そこに忠実であろうとしました。それが「神の奥義を管理する者」の姿。「基本に忠実」と言います。私たちも本質的なことに、神様の御心に、忠実な者となりたいのです。

しるされいる定めを越えない者になってほしい

パウロは人からどのような批判を受けようともぶれることも一喜一憂することもありませんでした。パウロは人の評価ではなく「神から…ほまれを受ける」ことを目標にしました。それは独善的になることではありません。「しるされている定めを越えない」ことに注意を払いました。私たちの身の回りのものにも使用方法と禁止事項(限界)を記した取扱説明書があります。それに従って使用するとき、そのものの能力や役割が安全に十分に発揮されます。しかしそれ以上の使い方や違う使い方をするなら保証の対象外です。聖書こそ、私たちが生きる上での基本、原則、本質的なことを「しるされた定め」です。私たちの取扱説明書です。私たちも神様の誉れを目標に、しるされた定めを越えず、自分を丁寧に用いる者となりたいのです。

弱さを弱さと認める者となってほしい

パウロは福音を伝えるために様々な苦労や危険を経験してきました。まるで死刑囚や捕虜のような扱いを受けました。しかしコリント教会の人々は「パウロのものだ」と誇っていながら、そういった経験や現状には見向きもしませんでした。美味しいところだけ利用して、あとは自分のやりたいようにやっているだけ。パウロは自分のような悲惨な目に遭え!と言いたいのではありません。パウロだけではなく、コリント教会の人々の「自分の現実」をきちんと見てほしいと言いたいのです。弱さや愚かさがあることを謙虚に認めてほしい。弱さや愚かさを通して神様の強さや賢さが現れるからです。私たちは自分が万能ではないこと、弱さや愚かさがあることをきちんと認める者となりたいのです。

口先ではなく実(じつ)のある者となってほしい

パウロは「愛する忠実なわたしの子テモテ」を遣わすと記します。テモテはパウロの実の子どもではありません。またパウロが洗礼を授けたわけでもありません。ただパウロの伝道旅行の苦労と生活を共にしました。パウロを見て成長したテモテ。そういう意味で「愛する忠実なわたしの子」。テモテが「生活のしかたを…思い起こさせてくれる」。それは言葉で教える以上に生き様で見せるということ。コリント教会の人々は言葉の上では達者だったかもしれません。しかしその生活は言葉ほど達者ではありませんでした。一方テモテは言葉と共に生活そのものが身についていたのです。「神の国は言葉ではなく、力である」。口先ではなく実のある生活こそ説得力を持つ、と言うことではないでしょうか?

10月30日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第18章1節〜35節から、「ゆるすこと−わたしたちにできること−」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved