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ハンナの祈り

母の日も父の日もアメリカの教会から始まりました。日本の教会でも母の日や父の日にちなんだ礼拝を行いますが、世の中にもすっかり定着したように思えます。いえ、「商戦」と言うほど盛んになっているように思えます。その一方、家庭に問題を抱え、痛みや悲しみを覚える家族もたくさんあります。そんな家族の癒しと回復、平安と祝福を祈り、なお丁寧に向き合い続けたいと思います。5月9日(日)は家族の日礼拝とし、サムエル記第一1.1-18から、「ハンナの祈り」と題してメッセージです。

不自由のない日々にも悩みはある

イスラエルの民が約束の地カナンに入り、「士師」と呼ばれるリーダーたちが治め、安定した時代を迎えつつあった頃のお話し。「神の箱」はシロという町の『主の家』『主の神殿』と呼ばれる所に安置されていました。当時の士師は、祭司のエリでした。さて。エルカナには2人の妻があり、1人はペニンナで子どもがあり、もう1人がハンナで子どもがありませんでした。エルカナ一家は毎年シロへ礼拝にのぼり、エルカナは家族1人1人に『受ける分』を与えますが、ハンナだけは特別でした。ハンナに子どもはありませんでしたが、エルカナの愛は特別だという表れです。それを妬んでか、もう一人の妻ペニンナはハンナを『ひどく苛立たせ』『怒りをかき立てる』ようなことをしました。ハンナは食事ができないほど苦しみました。何不自由ない、安定したルーティンの生活です。夫からもメッチャ愛されている。それでも悩みがある。不満がある。恵まれていると思えない。私たちにもそんなことがないでしょうか。

悩みは主に吐き出す

ハンナは意を決して食事の席を立ち、主の家に出かけました。激しく泣きながら、声を出さず口だけ動かして、子どもが与えられるよう祈りました。士師であり祭司であったエリは、主に仕えると共に、民の相談に応じるために『主の神殿の門柱のそばで、椅子に座って』いました。しかし、ハンナはエリをスルーし主に祈りました。エリはハンナの祈る様子を見て、酔っているのではないかと思い、ハンナに声をかけます。そこでようやくハンナはエリにこたえます。ハンナはエリに送り出されて食事の席に戻りました。祈ったら食欲がモリモリ湧いてきた!悩み、苦しみ、募る憂いは誰に吐き出すか?ぶつけるか?エリか?人か?まずは主に徹底的にぶつけ、委ね、手渡すとき、自由になる。ハンナはその時点で願いがかなったわけではありません。しかし『その顔は、もはや以前のようではなかった』ほどに晴れ晴れとしていました。

手放すときに得る

ハンナは子どもが与えられるよう祈ると同時に、『私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません』と祈りました。当時、こういう人を「ナジル人」とも呼び、特別に主に献げられた人を意味しました。しかし「与えて下さい!でも、献げます!」ってどういうこと?私たちは「私の」子ども、「私の」友達、「私の」生徒、「私の」部下、「私の」店、「私の」会社というように、「私の」思い通りにしようとすることはないでしょうか。思い通りにならないと怒る怒鳴る暴力を振るう。「これは私のものだ!」とギュッと握りしめて潰してしまう。そんなことはないか?握っていたものを主に向かって手放すとき、握っていたものも私も自由になる。それは失うのでも、放棄するのでもない。お互いがお互いらしく歩み始められる。私の自由になった手は、相手を応援するために用いることができる。一方的ではなく相互的。本当の意味でお互いを得ることになるのです。

ハンナは祈ったとおり、サムエルという子を得ました。彼はイスラエルの最後の士師にして最初の預言者となります。ハンナだけのサムエルではなく、みんなのサムエルになった。私たちも祈れば与えられます。でも思い通りに、言葉通りに与えられるとは限りません。祈った以上のことが起こる!それが主の常です。どの方向からどんな形で与えられるかわかりません。既に与えられているのに、気づいてないこともある。私たちは祈りによって与えられ、既に与えられているもののために祈るのです。自分のため、家族のため、お互いのため、祝福を祈り続けましょう。

5月16日(日)の礼拝は、マルコの福音書6.45-52から、「カッチカチの心」と題してメッセージです。


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