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聖霊の導き

小さい頃、「神様の言うとおり~」と、指を振って、どちらの物を選ぶか?みたいなことをしていました。普段は自分が適当に判断している。でも判断に迷うと「神様の言うとおり~」。こんなことを大人もやっていないか?占いだったり、くじだったり、サイコロだったり、目の前の人や出来事にかこつけたり。クリスチャンはどうか?「祈ってこうするよう示されました」「聖霊様のお導きを感じてあなたを訪問しました」とか。それも同じか?それは常の判断なのか?では聖霊様の導きがあれば、全てが見通せて、迷わず、間違えることなく、問題もなく進めるのか?ということで、5月23日(日)のペンテコステ礼拝は、使徒の働き16.6-10から、「聖霊の導き」と題してメッセージです。

思うようにいかないこともある 16.6-7

『彼ら』とはパウロの宣教チームです。パウロはかつて、教会の熱心な迫害者でしたが、復活のイエス様に出会って、教会を生み出す宣教者になりました。しかし教会は最初、彼を受け入れられません。そこでバルナバが架け橋となり、パウロは受け入れられました。バルナバはパウロの恩人。二人はアジア地方に宣教に出かけました。それが第一回宣教旅行。そして再び出かけようとして大激論に!前回は、若いマルコが同伴したのですが、途中でチームを離脱。パウロは「今回は連れていかない方がいい」と主張し、バルナバは「連れて行こう」と主張。パウロはシラスと若いテモテを連れて、バルナバはマルコを連れて、別々に出かけたのです。分裂?そしてパウロチームが進もうとすると、聖霊様が二度阻まれました。良くないこと続き?聖霊様怒ってる?パウロチームは御心でない?やめる?聖霊様は地域や時代を超えて、クリスチャン全てに寄り添うお方。パウロチームにもバルナバチームにも。分裂と捉えることもできれば、手分けして出かけたとも捉えられます。しかも、チームはこの二つとは限らない。聖霊様はあらゆる人々に寄り添い、全体を見渡し、立体的に俯瞰的に、適材適所に進めようとされます。ですから私たちが思うようにならないことや、他が上手くいっているように見えることもある。でも思うようにならないからダメなのではありません。聖霊様は導き続けておられるのです。

思わないところに道が開けることもある 16.8-10

パウロたちは行く手を阻まれたからといって、旅行をやめませんでした。阻まれない方向へ進みました。するとヨーロッパを目前にしたトロアスに到着。そこでパウロは、向こう岸のマケドニア人が助けを呼ぶ幻を見ました。そこで『私たち』と呼ばれる人々が、マケドニアへ渡ることを決断します。さっきは三人称。今度は一人称。なぜ?使徒の働きの記者ルカが、ここでパウロチームに合流したと考えられます。とにかく。パウロは幻を見たからといって独断しませんでした。みんなで、これまでのことと幻も合わせて検討し、決断し、行動に移したのです。『私たちはただちに…渡ることにした』とありますが、ここには「探し求める」という言葉が使われています。これまでも「こっちへ行こう」「いやこっちじゃない」「こっちが行ける」と進んできましたが、この先も全てがスコーンと見えたわけではないのです。また『召しておられる』という言葉は「呼び寄せておられる」と訳せます。聖霊様は寄り添われるだけではなく、行く先からも呼び寄せておられる。思うように進めず、進めるところを進んでみたら、アジアからヨーロッパへ、思わぬところに道が開けていたのです。

聖霊様の導きは、カーナビと似ています。私とカーナビの目的地は一つ。今時のカーナビはあらゆる情報を取得して案内します。時に休むよう促します。しかし実際に手足を動かし、車を運転するのは私です。時にトイレや買い物、訪問でルート変更します。よく知っているはずの道が工事中で戸惑うこともあります。カーナビはそういうことも込み込みで導きます。聖霊様と私の目的は宣教です。旅行とは限らない。日常が宣教。聖霊様はあらゆる情報を見ながら導かれます。私には予期せぬことが降りかかったり、立ちはだかったりするように見えることがあります。思い込みや間違いもあります。それも込み込みで導かれます。さらには「私たち」という判断もあります。私たちは聖霊様の操り人形ではありません。聖霊様は「私たち」の視点、アイデア、経験、賜物にも期待しておられます。聖霊様も私たちの選択や判断の道具ではありません。聖霊様と私たちは人格的なコミュニケーションチーム。常に交わりながら前進する「教会」。目的が全うされるまでを、よりクリエイティブに、よりユニークに、より豊かに前進する。それが聖霊様の導きなのです。

パウロとバルナバのその後は?マルコはバルナバの元で成長し、後のパウロを助ける者になります。私たちにも紆余曲折や山谷はあります。しかしあった分だけ豊かになる。目的を見失わず、聖霊様とお互いに、柔らかく耳を傾け、よいものを分かち合い、手分けしながら働きを進めましょう。

5月30日(日)の礼拝は、使徒の働き16.11-40から、「どん底からの賛美」と題してメッセージです。


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