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新しい共同体~神が父に

みなさんは「教会」と聞いて何をイメージされますか?日曜日に礼拝が行われている会堂ですか。「教会に行く」なんて表現もしませんか。教会は会堂で、私や私の生活とは別物ですか。エペソ人への手紙は教会とは何か?を教えてくれます。ということで7月4日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙1.1-6から、「新しい共同体~神が父に」と題してメッセージです。

この手紙はパウロが差出人。受取人はエペソ教会です。パウロは挨拶で自分を『神のみこころによるキリスト・イエスの使徒』、エペソ教会を『キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たち』と記します。しかしその締めは『私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように』と表現がします。神→キリスト・イエス→使徒。キリスト・イエス→聖徒。そして父なる神&主イエス・キリスト。前者二つは縦(立場や役割)の関係、後者は横(家族や人間的な)の関係が強調されていないでしょうか。いずれにしても教会は、会堂ではなく関係なのではないか?前置きが長くなりましたが、今回は父なる神様と私たちの関係についてです。

祝福するために

『私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました』。『ほめたたえられますように』と『祝福してくださいました』は同じ言葉。旧約聖書でも「ほめたたえる」と「祝福する」は同じ言葉。神様が私たちを祝福する。私たちはそれに感謝し賛美する。祝福と賛美のコミュニケーション。それが教会。『すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです』。『世界の基が据えられる前から…私たちを選び』って?選ばれていない人もいるのか?自分の意志は関係ないのか?今の時代、スパコンやAIで様々な予測ができるようになりました。神様の予知は比較になりません。全知です。しかも私たち次第でどんなふうに変化するかも知っておられます。私たちは父なる神様に愛されこの世に生み出されました。選ばれていない人はいません。そして天上の霊的祝福は上から下へ(縦)、あふれるほどに注がれている。そして私たちには自由意志が与えられている。私がその意志を働かせ、自らその祝福を受けとるとき、『御前に聖なる、傷のない者』になるのです。祝福と賛美。それは選びと応答というコミュニケーションでもあるのです。

わが子とするために

『神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました』。『みこころの良しとするところにしたがって』とは「そうしたいからそうするんだ!」ということです。『ご自分の子にしようと』とは「養子縁組にしようと」ということ。私たち人間は「神のかたち」として創造されました。神ではない被造物。でも、さらに『ご自分の子』にしたい!人形師が作った人形をわが子とする、博士が作ったロボットをわが子とする…そんなお話しやマンガがたくさんあります。人間でさえ、造ったものをわが子とするほど愛したい。神様の愛は比較になりません。『愛をもってあらかじめ定めて』と端から愛しておられたし、ますます愛してくださっている。『天上にある全ての霊的祝福』だけでも想像がつかない破格のプレゼントなのに、神の子にしたいとはどんだけ!私が意志を働かせ、自らこの愛を受けとるとき、イエス様と同じ権利を有する養子となるのです。イエス様と同じ扱い(横)。祝福と賛美。選びと応答。父と子というコミュニケーションが始まるのです。

栄光が満ちるために

『それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです』。『恵みの栄光』って何?『天上にある全ての霊的祝福』も『ご自分の子』にされるのも『恵みの栄光』も、スケールが大きすぎて一言では言えないし、一発で理解できるものでもありません。が、あえて言うなら、イエス様が今、天上で持っておられる栄光です。天地万物の創造者キリストとしての栄光だけではなく、イエス様として受難と救いをなし遂げ、天に凱旋されていただかれた栄光です。その栄光をイエス様だけではなく私たちにも!なんちゅう太っ腹!私たちみんなが持つことで、栄光が満ちあふれるわけです。上から下へ、横から横へ、隅から隅まで満ちあふれる!するとどうですか。天と地が豊かに一つにならないですか?アダムとエバが神様に向かず聞かず従わず、天と地は断絶しました。そして豊かさを失い続けてきた。しかしそれをつなぎ直し満たし直すのが私たち教会なのです。

世の中では、「神は死んだ」「父性や母性は存在しない」と言われることもあります。そして従来の家族のかたちに傷ついている人もあります。そして信頼や愛や家族のかたちを模索しています。しかし父なる神様はおられます。私たちが神を想像したのではなく、神が私たちを創造されました。神様は私たちを愛し祝福し通したい。私たちはそれを受けとり、喜び感謝し分かち合う。それが教会。会堂ではなくコミュニケーション。宗教的な集まり以上に、誰にとっても必要なコミュニケーションが、ここから始まるのです。

7月11日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙1.7-12から、「新しい共同体~キリストにあって」と題してメッセージです。


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