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幸い。罪赦される

8月8日(日)の礼拝は、詩篇32.1-11から、「幸い。罪赦される」と題してメッセージ。詩篇32篇は「悔い改めの詩篇」。表題は『ダビデによる。マスキール』。8節『あなたを諭そう』の『諭そう』がマスキール。他の詩篇では『巧みな歌で』とも訳されています。1-2節『幸いなことよ その背きを赦され罪おおわれた人は。幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きのない人は』。ダブル『幸いなことよ』。ダビデはよほど嬉しかったようです。『背き』『罪』『咎』3つ合わせてダビデのあらゆる罪。それが赦された!だから大喜びで巧みに賛美した!その旋律がどんなものだったかは今となってはわかりません。しかしこの詩が語りかける諭しは学ぶことができます。

罪を持ち続けるな 32.3-4

この詩篇の背景には「バテ・シェバ事件」があるようです。彼は最初、この事件における自分の罪を隠しました。その間、彼の内面はどんなだったか?『骨は疲れ切り…一日中うめき』『骨の髄さえ夏の日照りで乾ききった』。骨は内面を表現しています。彼の見た目は健康だったかもしれません。でも内面は罪に蝕まれ、焼けただれ、激痛が苛んでいた。罪はメルトダウンのように制御できない。私たちを内側から破壊します。『悪しき者は心の痛みが多い』。しかしダビデは『悪しき者』で終わりませんでした。

罪を隠さず告白せよ 32.5

ダビデは、『自分の罪』『自分の咎』『私の背き』『私の罪のとがめ』と、洗いざらい自分の罪を主に告白しました。主はダビデが罪を隠しているときから、その罪をご存じです。しかしダビデ自ら隠す限り、持ち続ける限り、握り続ける限り、手が出せない。ダビデが罪を告白することで主も罪を取り扱うことができる。病気の治療にも似ています。病人が医者に求めて初めて治療に取りかかれます。罪を犯さないことも大事ですが、罪を犯したら主の前に告白することが、もっと大事なのです。

主の御手に任せよ 32.6

ここはノアの箱舟を想起させます。当時は『地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾く』状態でした。それでも神様は直ぐに洪水を起こされたのではありません。箱舟を用意し、ギリギリまで人々が箱舟に乗るのを待っておられました。しかし乗り込んだのはノアの家族だけだった。他は大水の濁流に飲み込まれた。でもノアたちに濁流は届かなかった。7節と10節は前回の31篇を想起させます。ノアが箱舟に守られたように、ダビデが主の御手で守られる。31篇では外敵から守られる。32篇では内なる罪から守られる。主は罪を指摘してくださり、さばき(自滅)があることを教えてくださいます。そしてそれだけではなく、御手を広げて待っておられる。ダビデは主から逃げるのではなく、ますます主の御手に自分を任せたのです。

あなたがあなたの道を歩むために 32.9

ここは、罪や自分を制御できない人をたとえています。修行や矯正で自分を律しようとする人もいます。法律や罰則で犯罪を抑え込もうとする支配者もいます。でもそれは罪を犯さないための努力であって、自由かつ自律的だと言えるのか?8節『私はあなたが行く道であなたを教え あなたを諭そう。あなたに目を留め 助言を与えよう』。私が自由かつ自律して生きる道、私らしく生きられる道を用意し、歩き方を教えてくださるのは主です。主に学びつつ歩を進めるとき、私たちはあらゆる罪や矯正から自由でいられるのです。

ダビデは、バテ・シェバという人妻を奪い、その夫であり、ダビデの忠実な部下であり、勇敢な戦士であるウリヤが戦場で死ぬよう巧妙に策を弄しました。バテ・シェバがかわいそう。ウリヤはもっとかわいそう。こんなダビデを赦していいのか!喜ばせていいのか!ダビデは罪を隠したままトンズラしていたら、彼が他の詩篇で主に訴えていた『悪しき者』と同じです。「悪しき者をさばいてください」という彼の言葉は自分に返ってきました。だから彼は潔く主の前に立ちました。私たちの罪が軽かろうが重かろうが、主の前に隠すことなく認めることが、私たちにできる最も大事なことではないか?それが『霊に欺きがない人』ではないか?ダビデはこの事件で、被害者だけでなく国や子孫にまで大きな影響を及ぼしました。彼はその刈り取りを長い間することになります。でもそれは刑罰ではありません。当然のことです。彼はそのことに真摯に向き合い続け、王としてなし得る限りの責務を果たしました。それが彼の悔い改め。やり直しです。彼は赦されたからこそ、自分を失わず、本来の使命を生き切ったのです。『赦してくださいました』とは、「背負ってくださいました」「上げてくださいました」という言葉です。人が償いきれない罪と、被害者に追わせてしまった負い切れない重荷を誰が代わりに背負い、さばきのために上げられたのか?私たちの主、イエス様です。ダビデのためにも、バテ・シェバのためにも、ウリヤのためにも、私たちのためにも、さばかれ償いを用意されました。誰もが納得のさばき。それが十字架。誰もが満足の償い。それが栄光の復活と新天新地の相続。わだかまりが存在しようのない圧倒的救い。このイエス様が私を包み、喜び楽しませ、私の行くべき道を導き通してくださいます。

8月8日(日)の礼拝は、マルコの福音書7.24-30から、「信仰の柔らかな風」と題してメッセージです。


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