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幸い。主に真っ直ぐな私たち

詩篇32篇は悔い改めの詩篇でした。その最後は『正しい者たち 主を喜び 楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ 喜びの声をあげよ』。そして詩篇33篇の最初は『正しい者たち 主を喜び歌え。賛美は 直ぐな人たちにふさわしい』。詩篇32篇と33篇は連続している。個人的な罪の悔い改めから、共同体全体の喜びへ広がっている。なぜ?ということで8月22日(日)の礼拝は、詩篇33.1-22から、「幸い。主に真っ直ぐな私たち」と題してメッセージです。

主こそ真っ直ぐ 33.2-7

詩篇32篇はマスキールの歌。大喜びで巧みに歌う賛美でした。33篇も『十弦の琴に合わせ』『巧みに弦をかき鳴ら』せてみんなが歌います。まず何を歌うのか?主のことばの真っ直ぐさです。32.11と33.1の人の『直ぐ』と33.4の主の『真っ直ぐ』は同じ言葉です。主のことばこそ真っ直ぐ。33.6『主のことばによって天は造られた。天の万象もすべて御口の息吹によって』。この世界は主のことばでできました。『光、あれ』と言われれば『光があった』。そして最初の人アダムは、主の『いのちの息』を吹き入れられて『生きるもの』となった。つまり、主のことばに裏も表もなく、言われたことが全て。その通りになる。それを『真実』と言います。さらに主のことばはいのちを満たそう満たそうとします。それを『恵み』と言います。主のことばは、誰にでも公平に、真っ直ぐにこの世界に注がれている。そして命を満たそうとしている。私たちはその真実と恵みを認め、喜び賛美するのです。

私たちの真っ直ぐ 33.8-15

『全地よ 主を恐れよ』とあります。『正しい者たち 主を喜び歌え』と言っておいて、恐れよとはどういうことか?怖がることではありません。「畏敬」という言葉がありますが、感動をもって敬う気持ちです。主を感動をもって敬い、喜び楽しんで賛美する。しかし、私たちは主の存在を否定し、主が与えてくださった自然界やお互いを傍若無人に扱っていないか?降りそそがれる主の真実と恵みを拒否し、お互いから奪い合っていないか?至るところで真実をねじ曲げ、恵みを届かなくさせていないか?主はそんなところにも真実と恵みを真っ直ぐ届かせ満たすために『国々のはかりごとを破り もろもろの民の計画をくじかれ』ます。これを「さばき」と捉えることもできますが、さばきの対象にさえ真実と恵みを満たそうとしている、とも捉えることができます。そのために私たちにできること。それが主を恐れ、喜び楽しみ、賛美すること。それが私たちの真っ直ぐ。賛美は音楽とは限りません。主のことばに従う私たちの日常生活です。どんなに真実や恵みが失われているところでも、そこに私たちがおれば、私たちから真実と恵みが広がるのです。

真っ直ぐ拠り頼むことこそ安全 33.16-22

33篇には『目を注ぎ』『目を留められる』『目は主を恐れる者に注がれる』とあります。主は主に真っ直ぐな人たちを常にロックオンしておられます。ロックオンとは敵をガッチリ補足して逃さないことを言います。しかし主は、私たちをトコトン救うためにロックオンしてくださっているのです!ダビデが治めたイスラエルは小国でした。後を継いだソロモンは国が強くなるにつれ、主に従わなくなりました。その後イスラエルは分裂し滅亡していきました。昔も今も、他より賢く強く富むことが生き残る道だと考えがちです。そのために自然界やお互いから奪うことに必死になっていないか?それは結局、みんなジリ貧になるだけです。私たちがすべきは主を恐れ賛美し、主の『御名に拠り頼む』ことです。『拠り頼む』とは「安全である」という言葉です。真実と恵みといのちにあふれた主こそ安全。その御名は「イエス」です。イエス様は当時大帝国だったローマによって十字架刑に処されました。でも復活。誰も傷つけず、戦わずして圧倒的に勝つお方。やがて真の王として再臨され、世界をさばき、イエス様に真っ直ぐ向き続けた私たちを安心安全な新しい天と地へ、トコトン導いてくださいます。

個人の悔い改めが、なぜ共同体の賛美に変わるのか?個人と共同体は良くも悪くもつながっているからです。罪はまず主に真っ直ぐ向かなくなることから始まります。それが原罪です。そういう人同士の間に様々な問題が生じる。互いに影響し合い、世代を経るにつれて大きくなる。王ダビデの罪の影響力は大きかった。しかしそれは、悔い改めの影響力も大きいということです。では一市民の私の罪は大した影響はない?いえ。冒頭の『正しい者たち』とは、主に真っ直ぐつながりなした人たちです。王であろうと一市民であろうと、1人1人が主に真っ直ぐにつながりなおすところから、回復と安心と喜びが共同体全体へ広がっていくのです。共同体はしのぎを削って強くなれるのではなく、主に真っ直ぐつながりなおすことで強くなれるのです。

8月29日(日)の礼拝は、マルコの福音書12.41-44から、「すべてを献げたやもめ」と題してメッセージです。


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