カテゴリー

幸い。主にあって喜び楽しむ

ダビデは主を信じ、主に聞き従う人でした。しかし多くの敵、多くの苦しみがありました。ダビデは朝に夕にどこででも祈りました。そして敵や苦しみから救い出される度に主に賛美を献げました。そんな数々の祈りや賛美を詩篇から見てきました。しかし前回の34篇で少し様子が変わってきました。この世にあっては問題や苦しみはなくならない。なくならないからと言って主がいないのでも救いがないのでもない。苦しみを通して私たちは、砕かれ柔らかにされ、どんな状況にも向き合える。そして今日の詩篇でさらに一歩進んだ内容になります。10月10日(日)の礼拝は、詩篇35.1-28から、「幸い。主にあって喜び楽しむ」と題してメッセージです。

人を貶めて楽しむのではなく 35.7-8,15,21,25,26

ダビデは若くしてゴリアテを倒したとき、誰もがダビデを賞賛しました。しかしそれが一転、サウル王の妬みを買い、命を狙われることに。サウルにどれだけ尽くしても、忠実でも、親身になっても、サウルは誹謗中傷を繰り返し、人々には密告を促し、同僚や同胞からも狙われます。そんな恩を仇で返すような、ダビデを貶め、喜び嘲る人々が、35篇で繰り返し描かれます。しかしダビデは自分で仕返ししようとはしません。主に報いてくださるよう祈ります。ダビデが直接手を下すことは結局、人対人、力対力で、自分が相手を貶め、喜ぶことに変わりないからです。「墓穴を掘る」という言葉がありますが、ダビデが祈ったとおり、サウルもダビデをつけ狙った人々も、皆自滅していきました。彼らの嘲笑う声は、彼ら自身にふりかかったのです。

主にあって喜び楽しむ 35.3,9

3節の『救い』と9節の『御救い』はヘブル語のヨシュアという言葉。ギリシャ語でイエス。『わたしがあなたの救い(イエス)だ』『私のたましいは主にあって喜び 御救い(イエス)の中にあって 楽しみます』と読むと、ダビデや私たちの真の喜びがどこにあるかがわかるのではないでしょうか。ダビデは敵が滑って転んだり、自ら仕掛けた網に引っかかったり、自ら掘った穴に落ちるのを喜んだのではありません。彼は主を喜び、主の救いを楽しみました。喜ぶことと楽しむことはどう違う?小さな子どもが親からオモチャのプレゼントをもらうのに似ています。もらって終わりか?一緒に遊んで楽しむでしょう。もらうことで自分のものになるけれど、味わってこそ本当に自分のものになる。ダビデは自分がどんな状態でも、どんな状況でも、主との交わりを喜び、救いを味わい楽しみ、我がものとしていったのです。

みんなで楽しむ 35.18,27

ダビデは自分だけ主と主の救いを喜び楽しんだのではありません。みんなと分かち合って喜び楽しみました。分かち合うほどにそれは大きくなる。分かち合うことそのものが喜びであり楽しみでもある。ダビデは『私の義を喜びとする者たちが 喜びの声をあげ 楽しむようにしてください』と祈ります。『私の義』は自分の正しさを言うのではありません。主が私を義としてくださったことを言います。これが主からのプレゼント。その主とプレゼントをみんなも知って喜ぶ。みんなも自分のプレゼントとして楽しめる!だからみんなは、ダビデではなく、主をほめたたえるのです。『主は大いなるかな。ご自分のしもべの平和を喜ばれる方は』と。どんな状態や状況でも主の救いと平和を喜び楽しみ分かち合う。そのことによってさらに多くの人が、どんな状態や状況でも主の救いと平和を喜び楽しみ分かち合う。それがダビデの目指した国の姿です。これほど強い国はないのではないでしょうか。それはまた、私たち神の子、神の家族、神の国の姿なのです。

地上の人生は短く、この世界も束の間です。ならばせいざい、主と主の救いを喜び楽しみ分かち合いたい。神の家族の輪は、神の国はそうやって広がっていくのです。

10月17日(日)の礼拝は、マルコの福音書7.31-37から、「イエス様のうめき」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved