カテゴリー

イエス様のうめき

何もしゃべらず、何も聞かず、お互いのことを理解することはできません。その人に対する世間のうわさや周囲の評価で理解することも十分ではありません。お互いが直接向き合い、心開いて、時間をかけて、コミュニケーションを重ねることで、理解できていくのではないでしょうか。しかし私たちは、身近にいるだけで、コミュニケーションもないまま、勝手に相手を知ったつもりになっている、でも全然わかっていない、ということはないでしょうか。イエス様もこれに似たことでうめかれました。10月17日(日)の礼拝は、マルコの福音書7.31-37から、「イエス様のうめき」と題してメッセージです。

私たちの側の思い 7.32

イエス様は同胞の村々町々を巡り歩いて教え、病の癒しや悪霊の追い出しをしてこられました。おびただしい人々がイエス様を追いかけ求めました。イエス様はその求めに応えられました。人々はなおも追いかけ求め続けました。イエス様はそんな人々を見て『彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので…彼らを深くあわれ』まれました。かと思えば、パリサイ人や律法学者はイエス様をことあるごとに批難しました。イエス様はその都度説明されますが、彼らは聞く耳を持ちません。そんな人々に疲れを覚え異邦人の町へ。そこで異邦人女性の爽やかな信仰に触れて、再び同胞のところへ戻られました。それが今回の箇所。相変わらず癒しを求める人々が待ち受けていた。とにかく、病気や障害や目の前にある問題を解決してほしい。それが全て。そのためだけのイエス様だったのではないでしょうか。

イエス様の思い 7.33-34

イエス様は耳が聞こえず、口がきけない人だけを群衆から連れ出し、離れたところまで連れて行き、『深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われ』ました。この『深く息をして』が「うめく」という言葉です。そして『エパタ』は「開いて示す」「解き明かす」という言葉です。面白いのは、癒される順番がまず耳、そして口だったということです。イエス様のうめきは、「まず本当に聞くべき言葉をよく聞いて理解してほしい。そして理解したことを語ってほしい」という、思いのあらわれだったのではないでしょうか。

何に聞き、何を語るか 7.35-37

イエス様は『このことはだれにも言ってはならない』と口止めされます。今までもそうでした。しかし言い広めちゃいます。今回の人々だけではなく、今までの人々も、みな言い広めました。イエス様の言うこと聞かない。毎度のパターン。そしてイエス様のことを聞いた人々の反応は、「イエス様のわざはすばらしい」でした。しかしこの人々の言葉はイザヤのキリスト預言の成就でもありました(イザヤ書35.5-6)。良かったじゃん!そう、確かに良かった。でも、人々がイエス様のわざが預言の成就だと理解できたらもっと良かった。イエス様こそキリストだと人々の前で告白できたらもっともっと良かった。しかしそこまで至らなかったのです。

私たちはとかく、自分がしてほしいことだけ要求します。それさえしてくれればいい。要求通りになれば「あの人は素晴らしい」となる。イエス様を追いかける群衆がそうでした。でも触れられたくないところに触れられると、「あいつはけしからん」と怒り出す。イエス様を批難するパリサイ人や律法学者がそうでした。イエス様はこれまで『よく聞きなさい』『聞く耳のある者は聞き分けなさい』『彼らは、見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない』と言われました。私たちはどうでしょう。自分の要求も大切ですが、イエス様の言葉をよく聞くことこそ大切ではないでしょうか。私たちが悟るべきは、目の前の問題に隠れている、自分が触れたくない大きな問題を、取り扱えるのはイエス様だ、ということではないでしょうか。そして本当に語るべきは、イエス様こそ私の救い主だ、ということではないでしょうか。

イエス様はご自身のことをもっと知ってほしいと願っておられます。またあなたのことを、あなたの口からもっと知りたいとも願っておられます。あなたとのコミュニケーションを待っておられます。

10月24日(日)の礼拝は、詩篇36.1-12から、「幸い。突き抜ける人」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved