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忍耐深い主の訓練

私は小さい頃から青年期にかけて、教会の牧師によく叱られました。小さな頃はなぜ叱られているのか分からなかったのですが、だんだん「相手のことをもっとよく考えろ!」ということで叱られているんだと分かってきました。「相手のことをもっとよく考える」ということは、私にとって大切なテーマの一つになりました。イエス様の弟子たちも「相手のことをよく考える」ということができませんでした。そんなとき、イエス様はどうされたか?11月21日(日)の礼拝はマルコの福音書8.1-10から、「忍耐深い主の訓練」と題してメッセージです。

問いかけるイエス様

イエス様一行は、ツロとシドン、デカポリスという地域を抜けて、ガリラヤ湖畔まで戻ってこられました。多くの人がついて来ていて、みんな3日間食事をしていませんでした。その数は男性だけで4千人。当時の数え方です。実際は女性や子どもも含めると倍ほどいたかもしれません。以前にも似たようなことがありました。人々はイエス様を求めてきていました。お腹の空腹よりも霊と心の空腹の方が勝っていたのかもしれません。3日間も人々を空腹のままにさせておいて、イエス様は冷たいか?みんなを案じて口火を切ったのはイエス様です。『かわいそうに』。イエス様は弟子たちに向かって「かわいそうだ。どうしたらいい?」と問いかけられました。

考えない弟子たち

弟子たちの返事は『こんな人里離れたところで、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができるでしょうか』でした。以前の「5千人の給食」では『私たちが出ていって、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか』とこたえました。あんまり変わらない。今回の返事は前回のことを忘れちゃっているかのよう。進歩がない。考えていない。で、イエス様はぶち切れたか?いいえ。『パンはいくつありますか』。イエス様もめげない。弟子たちに変わらずに向き合われます。パンは7つありました。ギリシャ語でエプタ(ヘプタ)と読みます。このお話しの直前に、耳の聞こえない人を癒される記事がありました。イエス様が癒されるとき『エパタ』と言われました。これはアラム語で「開け」という言葉です。マルコはこの2つの言葉を意図的に記しているように思えます。『聞く耳があるなら、聞きなさい』『聞いていることに注意しなさい』、耳が開かれ悟ってほしい!イエス様のこれまでの思いが、ここにも響き渡っているのではないでしょうか。

あきらめないで寄り添うイエス様

イエス様は5千人の給食の時と同じように、弟子たちに手伝わせて、人々へパンと魚を配る奇跡を行われました。しかもこのわざを『感謝の祈り』を献げてから行われました。5千人の給食の時も『神をほめたたえ』てからわざをなされました。感謝の祈りと賛美です。弟子たちには「どうやってそんなことができるのか?無理だ!」という思いが渦巻いていました。イエス様に向いていない。自分の限界だけを見ている。そしてあきらめている。そのままならみんな空腹のままです。でもイエス様に向いて聞いて従うとき、自分も含め、多くの人に益がもたらされ、嘆きやあきらめは感謝の祈りと賛美へ変わるのではないでしょうか。

イエス様の『かわいそうに』。これは深い悲しみや痛みを伴う、相手を思いやる魂の叫びです。イエス様は神です。天地創造の前からおられる神の子キリストです。そのキリストが私たちと同じ体をまとい、私たちと同じように生活し、私たちがどんなことを考え、どんな感情に翻弄され、どんな辛い体験をしているか、身をもって知ってくださいました。そして群衆のことも、弟子のことも、私たちのこともよく考えてくださっています。ですから私たちは、まずイエス様に向いて、「どうしたらいいですか」と聞いて従うことが、相手のことをもっとよく考える第一歩となるのです。7つのパンをみんなに配った残りが7つのカゴになりました。これは弟子たちの翌日の食料になったはずです。彼らはそのパンを食べながら、何を考えたでしょうか。「昨日の体験を振り返り、よく考えるんだ。そして悟りなさい」。イエス様の優しい訓練はなお続きます。

11月28日(日)の待降節第一週礼拝は、テサロニケ人への手紙第一5.1-11から、「私たちは光の子」と題してメッセージです。


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