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イエス様のため息

弟子たちはイエス様のことばとわざに触れ続け、イエス様がだんだん見えるようになってきました。ペテロは『あなたはキリストです』と告白するまでになりました。今日は、ちょうどその告白の直前にあたるお話しです。ここでイエス様は大きなため息をつかれました。どうして?3月20日(日)の礼拝は、マルコの福音書8.11-21から、「イエス様のため息」と題してメッセージです。

分かるつもりのない人

『すると、パリサイ人たちがやって来てイエスと議論を始めた。彼らは天からのしるしを求め、イエスを試みようとしたのである』。今日のお話の直前には「4千人の給食」といわれるイエス様の奇跡がありました。それ以前にも5千人の給食、癒しや悪霊の追い出し、死んだ少女のよみがえりもありました。パリサイ人はイエス様の揚げ足を取ろうとつきまとっていましたから、そういった数々の『天からのしるし』を知っていました。でも『天からのしるし』を求めた。信じるためか?いいえ議論するため、試みるためでした。テレビの討論番組で、自分の正しさを主張するのに、「お前が正しいなら証明して見せろ!」と煽っている人のようなものです。「お前がキリストなら証明して見せろ!」と。パリサイ人はイエス様が何をしても難癖をつけました。後の話になりますが、イエス様はよみがえられました。これ以上ない『天からのしるし』。でも彼らは「弟子たちが遺体を盗んだ」とデマを流しました。イエス様が何をしても、信じない理由に変えてしまう。信じない理由ばかり探している。『イエスは、心の中で深くため息をついて、こう言われた。「この時代はなぜ、しるしを求めるのか。まことに、あなたがたに言います。今の時代には、どんなしるしも与えられません」』。イエス様は、文句を言うだけで何もしないパリサイ人の挑発を受けて、しるしをなさることは決してありませんでした。イエス様は私たちを取り戻し、癒し回復し救うためにしるしをなさるのです。

悟るにいたらない人

『弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、一つのパンのほかは、舟の中に持ち合わせがなかった。 そのとき、イエスは彼らに命じられた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい」』。イエス様は弟子たちに嫌みを言われたのか?いいえ。本当に知ってほしいことを印象づけようとされたのです。パン種はパンを大きく膨らませる働きがあります。『パリサイ人のパン種』と『ヘロデのパン種』とは「不信仰」と「世俗化」です。パリサイ人もヘロデも民衆のリーダーです。世の中への影響力は大きい。不信仰と世俗化は広がりやすいのです。イエス様はこの警告を弟子たちに発せられました。でも弟子たちは全く違うことをイメージしました。「イエス様はパンを忘れたことを皮肉っている。誰が悪い?」。『イエスはそれに気がついて言われた。「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか」』。ここでもイエス様のため息が聞こえてきそうです。弟子たちはイエス様のことばとわざに触れ続けていても、何かあったらすぐに頭を寄せ合っている。イエス様に向かなくなってしまう。

『まだ分からないのですか、悟らないのですか』。「分かる」とは一つ一つのことを理解することです。「悟る」とは分かった一つ一つのことを組み合わせて、より大きなことが分かってくるということです。私の存在証明はそう簡単ではありません。たとえ存在を証明できても、私を理解することはできません。でもみなさんは、面倒くさい証明がなくても、私がいると信じています。私がいるかいないかこだわる暇があるなら、交わりをもっと喜び楽しんだ方がいい。そのほうが私をもっと理解できるはず。でないと時間がもったいない。イエス様もそうじゃないでしょうか。神の子キリスト、万物の創造者、救い主として、イエス様に向く。弟子たちにはこの視点がまだまだでした。だからイエス様のことばやわざの一つ一つが分からなかったし、それらのことからイエス様というお方を悟るに至れなかったのです。私たちはイエス様の何を信じているでしょうか?目先の問題の解決だけなら、イエス様は道具に過ぎません。不信仰や世俗化と変わらない。『あなたはキリストです』と告白し、イエス様との交わりを喜び楽しむべきではないでしょうか。

3月27日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙4.1-16から、「一致と多様性で成熟する」と題してメッセージです。


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