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主のような方はほかにいない

2022年10月16日(日)

今日のタイトルはモーセの言葉からとりましたが、ファラオみたいな人は結構いるのかもしれません。「ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞きいれなかった。」心の頑なさは話を聞かない、聞いても自分の意見を変えないところに表れます。10月16日(日)の礼拝は出エジプト記7.14-8.15から「主のような方はほかにいない」と題してメッセージです。

第一の災い

 アロンの持っていた杖がへびに変わり、呪法師たちの杖を飲み込むという不思議を目の当たりにしながらもイスラエルを去らせようとしないファラオに、第一の災いが襲います。それはナイル川の水が血に変わるというものでした。川の水が血になる、すると当然川の魚は生きていけず作物も育たないでしょう。それどころか人の生活、命にまで関わってきます。命を支えるものが死をもたらすものに。実はこれはエジプトとイスラエルに関係しています。エジプトはこれまでイスラエルを苦しめてきました。その苦しみがいまやエジプト自身に返ってきたのです。さらに、エジプトにとってナイル川は神様です。その神がイスラエルの神に負かされました。これを主はアロンの手を伸ばして行われます。神様は手を伸ばしてイスラエルを救うと約束していました。第一の災いは、ナイル川というエジプト中の人が目で見て分かるものでした。本当に私たちに命を与えるのは誰か、誰が本当に災いを与えているのかを示すものでもあったのです。

第二の災い

 そして第二の災いがエジプトを襲います。それが蛙の災いです。家の中に、寝台に、台所にも蛙が入り込んでくるのです。エジプトの呪法師たちも同じことをしますが、蛙を去らせることはできません。そこでようやくファラオはモーセとアロンを呼び、蛙を去らせるように、去らせたなら主にいけにえを献げてもいいというのです。主にいけにえを献げるというのは、自分の奴隷ではなく主のしもべとなってもよいとの意味も含んでいます。そこでモーセはファラオが言ったそのときに蛙が去るように主に叫びます。「それは、あなたが、私たちの神、主のような方はほかにいないことを知るためです。」これらの災いは苦しめるためのものではなく、主こそ神であることを知るためのものでした。

 救いを通して主を知ったことに感謝するとともに、主と人に心を頑なにし、聞かない、聞いても変わらないということがないようにしたいものです。

10月23日(日)の礼拝は、出エジプト記8.16-9.12から「神様の特別扱い」と題してメッセージです。


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