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もう縛られません

2023年6月11日(日)

今日はキリスト教のこよみで「花の日・子どもの日」です。たくさんの花が咲くこの頃に、子どもたちの成長と祝福を祈ります。今日は天授ヶ岡教会でもたくさんの花々に囲まれての礼拝となりました。6月11日の礼拝は、コロサイ人への手紙2.20-23から「もう縛られません」と題してメッセージです。

どうしてまだ縛られるのですか

 律法を守るように教える人たちや自分の体験を誇って、本当にはイエス様に結び付いていない人たちからとやかく言われるようなことがあってはいけないと教えたパウロは、次にコロサイの人たちに向かって「どうしてまだこの世に生きているかのように定めに縛られるのか」と聞いています。この世が当然とする考え方や風潮に対して、まだそんなことを思っているのかと警告します。

私たちはコロサイの人たちではありませんので、コロサイの人たちが持っていたような慣習やユダヤ教の教えが身に沁みついているわけではありません。しかしクリスチャンになりながらなお、縛られなくてもいいことに縛られる、流されるということがあるのです。

知恵あるようで役に立たないもの

それらは人が作ったものに過ぎません。人が作ったものですから、守っても何にもならないし、守らなくてもどうもならないものです。しかしこれらのものが受け入れられるのは、それが知恵のあるもののように見えて、自分が安心するからです。パウロは同じ「礼拝」でも、神様を崇め、神様に聞き、神様に悔い改める礼拝ではなく、自分に関心を持ち、神様よりも人を見て、自分を誇り、人をさばく自分勝手な礼拝は何の価値もないと言います。

キリストとともに死んで離された

 しかし私たちはキリストとともに死に、この世のもろもろの霊、つまり自分を縛るものや自己満足するものからも離されたのです。それらはもう死んだのです。人の言葉に縛られる私も、その苦行に満足する私も死にました。そういったものにもはや支配されていません。私たちがイエス様を信じて受けた救いはそれほど大きなものです。私たちはもう縛られていません。

 …とここまでなら死んでおわりですが、次の3章からはキリストとともによみがえらされた私たちの新しい歩みが始まります。

6月18日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙3.1-11から「上にあるものを思いなさい」と題してメッセージです。


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