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変えられた祈り

2023年8月13日(日)

コロサイ人への手紙は祈りから始まりましたが、最後も祈りで閉じられようとしています。祈りとは決して願いごとを聞いてもらうための手段ではありません。祈りとは父なる神様との会話、交わりです。願い事を叶えてもらうことではなく、願い事を知っていただくことに重きがあるのです。8月13日の礼拝は、コロサイ人への手紙4.2-6から「変えられた祈り」と題してメッセージです。

目を覚ました祈り

 私たちは普段どんな風にお祈りをしているでしょうか。聖書は、たゆみなく祈ることを教えていますが、ただ祈り続けるというのではなく、感謝をもって目を覚まして祈ることを教えています。祈る時に目を覚ましていることというのは実は関係しています。イエス様もゲッセマネの園で眠ってしまった弟子たちに「目を覚まして祈っていなさい」と語られました。これはただ起きていなさいということではなく、今がどういう時なのか見極めて注意して祈りなさいということです。

今が主にあってどういう時なのか教えていただいて、イエス様が感謝をもって見ておられたように感謝をもって見、たゆみない祈りをおささげします。

とりなしの祈り

パウロはイエス様に出会って人生が180度変えられました。だからこそ喜びをもって、自分のことよりも、何よりも、キリストの奥義を語れることを願いました。本当の救いを知ったからです。パウロはこの霊の戦いを勝ち抜くために祈りを求めました。

牧師のために、また神の家族の戦いのためにとりなして祈ることは力です。

行動とことばのための祈り

 そして教会にまだ来られてない方々に対しては、その人と過ごす時間を神様が与えてくださった時間として、イエス様のように過ごすことを教えています。人が聞いて嬉しい言葉を使いつつ、塩味のきいた料理のように真理を語ります。初めから上手にはできません。味付けに失敗し、言いすぎたり、もっとこんな言い方があったとかを繰り返していくことで、どのように答えていけばよいのか主が教えてくださるのです。

 これが、自分のことばかり祈ることから変えられた祈りです。

8月20日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙4.7-9から「奴隷ではなく兄弟」と題してメッセージです。


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