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ともに生きるということ

2023年11月19日(日)

神様は、救われた神の民がどのようにして一緒に過ごしているかということを重視しています。それは一緒に過ごすということが、三位一体の神様のご性質を表すものだからです。神様は私たちをそのような交わりに入れてくださったばかりか、お互いがそのような交わりを持つことを願っておられます。その交わりを通して、聖書の神をほとんど知らないところにおいても神様の素晴らしさが証しされていくのです。11月19日の礼拝は、出エジプト記22.1-17から「ともに生きるということ」と題してメッセージです。

最上のものをもって償う

 ここにはいわゆる窃盗罪、器物損壊罪に当たる事柄が当時のイスラエル社会を背景にして書かれています。当時、家畜は食料であり、農作業に必要であり、ゆえに財産でもありました。これらが盗まれることは、持ち主の生活や生命に関わることです。したがって幾倍にして償うことが定められました。もし自分の家畜が他人の畑を荒らした場合は、最上のものをもって償います。相手に損害を与えることがあっても償うことでまた社会に戻る道が備えられているのです。誠実な謝罪とゆるしの交わりがここにはあります。

神様から与えられているものを管理する

金品や物品、家畜をご近所の方に預けるという習慣がありました。銀行などない時代です。このとき、預かりものに対して預かり主はきちんと神様の御前に誓えるほどに管理することが求められ、盗んだ人には償いが定められました。盗むということは、その行為の奥底に「これでは足りない」「あれが欲しい」という思いがあります。しかし私たちの父なる神様は私たちの必要をご存知です。足りない、あれがなければいけないというのは、神様ではなく物に信頼することです。神様の望まれない使い方をしていないか、自分と人に神様が与えてくださったものとして見ているかが問われます。

それでも一緒に過ごす

盗んでしまった人、管理を誤った人、その人も償いをすることでまた一緒に過ごすことができました。一緒に過ごすことでトラブルは起きますが、こうした償いの定めは、ゆるされてまた一緒に過ごすことを可能にします。一緒にいることはそれほど大事なのです。神様の愛の深さを示すことになるからです。

11月26日(日)の礼拝は、出エジプト記22.18-31から「ふつうの者が聖なる者に」と題してメッセージです。


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