神の深いあわれみ
2023年12月17日(日)
口がきけなくなっていたザカリヤでしたが、「その子の名はヨハネ」と書き記した瞬間、ものが言えるようになり神様を賛美しました。このザカリヤの預言は「ほむべきかな」で始まるので「ベネディクトゥス」(ラテン語)と呼ばれています。ここでザカリヤは神様の救いとヨハネの使命について語ります。12月17日の礼拝は、ルカの福音書1.67-80から「神の深いあわれみ」と題してメッセージです。
神が私のところへやってきた
なぜ主は「ほむべきかな」なのでしょうか。それは「主がその御民を顧みて」くださったからです。この顧みるという言葉には「見る」という意味が込められていますが、実は同じ言葉が78節の「訪れ」にも使われています。神様はご自分の民を見ていてくださる。見て訪れてくださる、だからほむべきかなとザカリヤは賛美したのです。
待降節、私たちは何を待つかと言えば、神様が私を訪れてくださった出来事(クリスマス)、そして再び訪れてくださることを待つのです。
敵の手からの救い
神様はご自分の民を顧み、敵の手から救うとザカリヤは預言しました。敵とは何なのでしょうか。74節を見ると、「敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる」と言っています。つまり、敵は恐れなく主に仕えることを阻んでいるのです。
恐れなく、すべての日々において敬虔に、正しく主に仕えているか?と問われると顔を上げることもできない自分がいます。しかし、主に仕えるとは、特別な何かではなく、主と共に喜んで生きること。それを阻むような不安や恐れ、疑いや心配こそ、敵ではないでしょうか。主はここから救い出してくださるのです。
暗闇から平和の道へ
そしてヨハネこそ、このことを気付かせるために主に先立って遣わされたのです。私たちは教えられなければ、こうしたことも分からない暗闇の中にいます。しかし神の深いあわれみは、そんな私たちを訪れ、闇の中にいる私たちとそこから救い出してくださる主を照らし、神様と共に生きる平和の道を歩ませます。この私たちの姿を通して、共に平和の道を歩む方が起こされますように。
12月24日(日)の礼拝は、ルカの福音書2.1-20から「この方こそ主キリスト」と題してメッセージです。