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神と人とにいつくしまれて

2024年2月11日(日)

皆さんは子ども時代、どんなお子さんだったでしょうか。私は自分を振り返るとかわいげのない子どもだっただろうと思います。ではイエス様はどうだったのでしょうか。ここには唯一、イエス様が赤ちゃんでもない、大人でもない、少年時代のイエス様が記録されています。2月11日の礼拝は、ルカの福音書2.41-52から「神と人とにいつくしまれて」と題してメッセージです。

理解できないことを心に留める

 イエス様の家族は毎年過ぎ越しの祭りにはエルサレムへ上っていたようですが、イエス様が12歳のとき事件が起こります。それは祭りが終わった帰り道、イエス様の姿が見当たらなくなったことです。両親はエルサレムへ引き返すこと三日、ようやく神殿で教師たちと話すイエス様を見つけます。心配したという母マリアに対し、イエス様は「自分の父の家にいるのは当然」だと答えます。この答えを両親は理解できませんでしたが、マリアはこれらの出来事を心に留めていました。今は理解できないことも心に留める。忙しくて忘れたり、短絡的な答えに納得しないで、神様が教えてくださることを待ち望むのです。

座って、話を聞いたり質問したり

実はイエス様の返事は神殿を父の家と呼んでおり、ご自分が神のひとり子であり救い主あることを言い表していました。そんなイエス様は神殿で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしていました。神であられるにもかかわらず、教師に学び、教師の理解を促し、対話をされるイエス様の姿があります。決して一方的に話したり、教えたりする様子がここにはありません。

いるべきところで仕える

また両親と合流した後は一緒に家に帰り、その後両親に仕えられました。仕えることは私たちはあまり好きではないと思います。自分の欲に反するからです。しかしここでもイエス様は神であられるにもかかわらずお仕えになりました。「神と人とにいつくしまれ」たイエス様は、このように人に学び、対話し、両親に仕えながら成長していかれました。私たちもイエス様のこうした姿に学び、願い、助け主なる聖霊により頼みたいと思います。

私たち一人ひとり、今週も置かれたそのところで、神と人とにいつくしまれる歩みをすることができますように、仕える者として下さい。

2月18日(日)の礼拝は、ルカの福音書3.1-20から「聖霊と火のバプテスマ」と題してメッセージです。


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