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信仰を継承する

1月15日(日)の礼拝は、ドロシー・エレン・ホーア師と福田八重師の追悼礼拝でした。お二人は戦前・戦後、東京や大阪を中心に伝道活動をされ、多くのクリスチャンや牧師が生み出されました。その働きの中で天授ヶ岡教会と天授ヶ岡幼稚園が誕生しました。詳細は教会ホームページの「教会の案内・沿革」にありますのでご覧下さい。ヘブル人への手紙第13章7節〜8節から、お二人の先生をはじめ、信仰の先輩たちを思い起こしながら、何を継承すべきか、何にならうべきかをメッセージしました。

信仰を継承する

「神の言をあなたがたに語った指導者たちのことを、いつも思い起こしなさい。彼らの生活の最後を見て、その信仰にならいなさい」(ヘブル13:7)とヘブル人への手紙の著者は語ります。「その人格にならいなさい」「その行いにならいなさい」ではなく「その信仰にならいなさい」。私たちはとかく、有名人や尊敬する人の人格や行いにならおうと(コピーしようと)します。言葉遣いや仕草が似てくることもあります。しかし良いところばかりコピーできればいいですが、そうでないところもコピーしてしまいがち。しかし信仰は人格や行いに左右されません。逆に信仰によって人格や行いが定まると言えるのです。聖書が言う信仰とは?「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された」(ヘブル11:1-2)。これは自分が「ああしたい」「こうしたい」「必ずこうなる!」「いや、もう実現した!」と、望んだり宣言したりすることではありません。どれだけ突拍子もないことを実現させたかという武勇伝でもありません。聖書が言う信仰とは、「神の言」−救いと祝福の言−を信じて従い抜くことです。「彼らの生活の最後」とは「彼らの地上生活からの脱出」と訳せる言葉です。信仰の先輩たちは、神の言に従う信仰を貫き、引き継ぎ、地上生活から脱出していったのです。では信仰さえ同じであれば人格と行いはどうでもいいのか?

キリストにならう

ヘブル人への手紙の著者は当時の社会を垣間見せてくれます。政治や宗教的理由で移動を余儀なくされる人々がたくさんありました。不当な理由で投獄されたり不当な扱いで苦しんでいる人々がたくさんありました。結婚が軽んぜられ性的なことに関して何でもありだったようです。金で何でも手に入れる風潮もありました。また使徒たちが伝えた教えとは違って、律法主義や禁欲主義や原理主義的な教えを教会に持ち込む者もいました。こうやって見ると当時も今もそう違いません。愛の心は冷え、モラルは崩壊し、人々の考えや行動は極端から極端へ激しく揺れ動いています。一体誰にならうべき?著者は具体的な行いと共にこう語ります。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない」(ヘブル13:8)。「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである」(ヘブル12:2)。キリストこそ信仰の模範。神の言に従い抜かれました。そこにあの人格と行いがありました。そして神の言に死に、よみがえらされ、天に昇られたました。そこに完成されたキリストがあります。私たちの人生にとって成功や失敗が問題なのではありません。神の言に徹するキリストにならい続けたかが問題です。その結果として私の人格と行いがある。そして地上生活から脱出するとき私もまた完成されるのです。

キリストは全時代、全地域を貫く大木のようなもの。信仰の先輩たちはみなこの大木につながって、その時代、その地域に仕えました。その枝振りは様々。同じものはありません。しかしみなキリストにつながって地から天へ向かっているのです。私たちもこのキリストにつながって、今の時代、今の地域に仕え、天を目指してまいりましょう。

1月22日(日)の礼拝は、創世記第9章18節〜第10章32節から、「恥を覆う祝福の子」と題してメッセージです。


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