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神の召しを大切にする教会

「革命」と「改革」。違いは何でしょうか。革命は「支配者から被支配者が力尽くで権力を奪い取ること」「従来の政治・経済構造、制度や価値観を急激な力で根本的に覆すこと」。改革は「従来の政治・経済構造などの社会基盤は維持しつつ、よりよいあり方を模索し、徐々に改めていくこと」。革命は急激で劇的に、改革は緩やかに穏やかに、と言ったところ。以前コリント教会が原理主義的禁欲と自由を乱用する放縦の間で揺れていたことに触れましたが、さらに急激で劇的な変化を主張する人々があったようです。ということで、4月2日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第7章17節〜24節から、「神の召しを大切にする教会」と題して、メッセージでした。

外側の召しを大切にする

当時、ユダヤ人は男子であれば小さい時に割礼を受けました。異邦人がユダヤ教に改宗する場合も男子であれば割礼を受けました。外側の変化です。それと同じように、コリント教会の中に、神様に出会い召しに応じ、キリストを信じバプテスマを受けた時、外側の変化が必要だと思ったようです。ユダヤ教からの改宗なら割礼のあとを消すべきだ、または異邦人のキリスト教への改宗なら割礼を受けるべきだ、と言うようなことです。しかしパウロは割礼のあとを消そうとするな、割礼がないなら受けようとするな、召された時のままの状態でいい、と記します。現代に生きる私たちもクリスチャンになったからと言って、私の外見や生活環境や境遇が一夜にして急激に劇的に変わることはありません。また同じ外見や生活環境や境遇の人しか救われないのでもありません。神様はどんな人も、どんな環境や境遇でも召され救われます。それはあらゆる所に福音が届いて、その人が、そこが、キリスト化されていくためなのです。じゃあ結局革命なのか?

内側の召しを大切にする

当時は奴隷制社会でした。コリント教会にも自由人と奴隷のクリスチャンがいたようです。パウロは奴隷制打倒のためにクリスチャンに決起を呼びかけたか?召された時の状態に、奴隷は奴隷として自由人は自由人としてとどまっていなさい、しかし自由になれるなら自由になりなさい、奴隷は主にあって自由であり自由人は主の奴隷、あなたがたは代価を払って買いとられた、だから人の奴隷になるな、と記します。何を言いたいねんパウロ!奴隷も自由人もキリストを信じるなら神の子となります。真の自由人。しかし当時使われていた「買いとる」という意味では奴隷。しかしそれは神様への隷属を意味するものではなく、自由へ解放するための「買いとる」です。これが内側の変化。クリスチャンになった奴隷は真心込めて主人に仕え、クリスチャンになった主人は真心込めて奴隷を大切にしました。その麗しい関係がやがて社会制度を変えていくことになります。現代に生きる私たちの社会に奴隷制度はありません。しかし支配と隷属の関係が夫婦やパートナーや家族の中に、先生や生徒、上司や部下、仲間同士の中にありはしないか?外側をいくら変えても内側はなかなか変わらない。外側の変化も大切ですが、より大切なのは内側からの変化。内側の変化あっての外側の変化なのです。

原則に立つことを大切にする

パウロはここで原則を示します。神様の前にとどまり続け、神様の言葉に聞いて従い、神様が与えて下さる賜物(今ある私、今ある関係)を喜び楽しんで生活すること(歯を食いしばって我慢するとなると要注意。原則から外れていきます。神様は新たに召されることもある。とにかく柔らかくリラックスして原則に立つ)です。この原則に立つなら、私がどんな状態であろうとどんな環境や境遇にあろうと、生き方はそんなに変わりません。振り子が振れるように、ぶれることはありません。しかしこの原則に立つなら、内側から外側へ、私がじわ〜っと変えられ、周りもじわ〜っと変わっていくのです。

4月9日(日)は棕櫚の主日(パームサンデー)礼拝。マルコによる福音書第15章と詩篇第22篇から、「十字架が奏でる賛美」と題してメッセージです。

 


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