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一緒に集まることの意味

世の中には様々な問題があります。世の中の問題と教会は無縁ではありません。教会は問題に飲み込まれるのではなく、その問題に向き合い乗り越えるためにあります。乗り越える経験という利益を世に還元するためにあります。その営みが神の栄光を現します。コリント教会には多くの問題がありました。パウロは、コリント教会の人々が一緒に集まる時、その集まりが『利益』ではなく『損失』をもたらしている、『分争』が生じている、と記します。ということで、8月6日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第11章17節〜34節から、「一緒に集まることの意味」と題してメッセージでした。

教会はお互いを一つにする集まり

今回の問題は「格差」。今の世の中も格差社会。当時は奴隷制社会。奴隷だけではなく寡婦も貧しさにさらされていました。そんな格差社会にあったコリント教会。当時教会堂はなく、クリスチャン家庭に度々集まり『晩餐』を行っていました。夕食を交えた礼拝です。聖餐も含んでいました。その晩餐は持ち寄り。早くに集うのはお金持ち。豪勢な食事と上等のぶどう酒を持ってきていたようです。次にサラリーマンのような人々。夜遅くに奴隷や寡婦が集いました。しかしお金持ちが先に食べて飲んで酔っ払ってしまい、後から来る人ほど何も食べられず飲めなくなっていました。世の中の問題がそのまま教会の中にあった。奴隷や寡婦は遅くまで仕事をし貧しくもありましたから、ひもじい思いをしたでしょう。お金持ちは「自分で稼いだ金で用意した物を、自分たちが先に食べて何が悪い?」と主張したかも知れません。しかしそのお金は奴隷や寡婦が遅くまで働いてくれたおかげではないか?パウロは教会の晩餐は『主の晩餐』なのに、お金持ちは『自分の晩餐』を勝手にしている!と指摘します。『分争』とは分裂とか不和という言葉。パウロは『あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい』と言います。分争を煽っているのではなく、問題の原因を客観的に捉えるため様々な立場の人も必要だと言っているのです。教会は、違う立場、生い立ち、性格、能力の人たちが、違いがありながらもキリストの思いと心を共有し、キリストを中心に一つになっていくための集まりなのです。

教会はお互いを生かし合うための集まり

『だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである』とパウロ。聖餐式に読む聖書箇所でもあります。自分がふさわしくないままで、わきまえないで聖餐式を受けたら、自分が弱くなり病気になり早死にするともとれます。聖餐式って何て怖いんだ!いえいえ。お金持ちが『自分の晩餐』を勝手にすることで、貧しい人たちを弱らせ、病ませ、死に至らせている!とパウロは言うのです。何てひどい!『この世の罪と共に定められないために、主の懲らしめを受ける』とパウロ。この『懲らしめ』とは教育とかしつけという言葉。神様はお金持ちを責任を持って教育されます。でも私たちはお金持ちを責められるか?自分の利益ばかり主張していないか?キリストは最後の晩餐で、パンとぶどう酒を分かち合われました。それは私たちがキリストの肉と血によって救われたことをリアルに覚えるため。教会は、違うみんながキリストによって等しく救われ、神の子とされ、生かされていることを喜び合うための集まり。そしてキリストの利益に等しく生かされる私たちお互いも、違いを超えて分かち合い、補い合い、生かし合う集まりなのです。

主の晩餐ならみんなが集まってから食事をすればいい。食事がなくても交わりはできる。お腹がすけばより美味しくいただける。そこへクリスチャンでない人が来てもおもてなしできる。交わりの輪も広がる。そこにいるみんなが楽しめる。そして一つ屋根の下で自由人と奴隷が食事を等しく分かち合う姿は社会的インパクトも大でしょう。天授ヶ岡教会も様々な方々の集まりです。でもキリストにあって一つ。そしてお互い支え生かし合う。礼拝の交わり(時にお茶や食事を交えた礼拝もあり)を喜んで営み、楽しんで分かち合い、いただいた恵みをふるまってまいりましょう。なぜならキリストがそういうお方だからです。

8月13日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第12章1節〜11節から、「霊の賜物を持ち寄る教会」と題してメッセージです。


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