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呪いを凌駕する神の祝福

国によって躾の言葉も違うようです。たとえば「他人に迷惑かけちゃダメですよ」。私もよく注意されました。しかしある国では「他人に迷惑かけて生きているのだから、あなたも他人を赦してあげなさい」と言うそうです。なるほど!と思います。では聖書は何と言うでしょうか。先の二つの言葉についても語っています。しかしそれは他人に対する消極的な姿。聖書は「他人を祝福する」という積極的な姿を語ります。ということで、3月24日(日)の礼拝は、創世記第49章1節〜23節から、「呪いを凌駕する神の祝福」と題してメッセージでした。

神が私たちに語られる

ヤコブはかつて、祝福を他人から奪うことに必死でした。しかし神様が粘り強く向き合って下さったおかげで、他者を祝福する者となりました。そして死を目前にして、自分の子ども全員を呼び集め祝福します。その祝福は『あなたがたの上に起こること』。そして『すべてこれらはイスラエルの十二の部族』のことです。これはヤコブの占いでも予言でもありません。ヤコブを通して語られた神様の預言です。祝福は神様から発し、人を通して広がるからです。個人から家族、民族、国、世界に広がるからです。ですからこの祝福は私たちにとっても他人事ではありません。全時代、全世界の人々へ語りかけられている神の祝福なのです。

神が私たちを知っておられる

ヤコブの子どもたちへの祝福の言葉は、長いものもあれば短いものもあります。良いように思えることもあれば、悪いように思えることもあります。一人一人違います。ヤコブはそれぞれの子どもたちをよく知り、それぞれのしたことにふさわしく語りました。と同時に、神様がヤコブ以上に子どもたちをよく知って語られたとも言えます。これは因果応報に見えるかも知れません。しかしそう単純ではありません。私たちがしたことが将来に影響することはもちろんあります。しかし不可抗力的な出来事もたくさんあります。神様は全ての要素を含めて一人一人を知り、一人一人にふさわしく、一人一人のためを思って語って下さるのです。

神が私たちを祝福するため

今まで、子どもたちのえげつない行為がたくさんありました。呪われるとまで語られます。しかしあくまで祝福の言葉。『これは…彼らを祝福したもので、彼は祝福すべきところに従って、彼らおのおのを祝福した』。ではその人がえげつないままで祝福されるのか?いえ。自分が蒔いた種は自分が刈り取る必要があります。自分が果たせる責任は自分が果たす必要があります。そのために自分の真実な姿を自覚する必要があります。だから、祝福の言葉の中に、その人の酸いも辛いも苦いも語られるのです。諭すように。それを神様と二人三脚で乗り越えて祝福を受け取るためです。自ら招く呪いを凌駕する神の祝福を受け取るためです。

そのことを一番良く知り、体験したのはヤコブでした。だから子どもたちにも真実に語るのです。私たちにも酸いも辛いも苦いもあります。自ら呪いを招くようなことをしています。それでいて「なぜこんなことが身に降りかかるのか!私は悪くない!」と他人や他のせいにすることもあります。しかしそんな私たちに神様は向き合い、蒔いた種を刈り取り取れるように、果たすべき責任を果たせるように、自分の真実な姿を自覚できるように、トコトン付き合って下さいます。それは私たちが祝福を受けるためです。そして他者に分かち合えるようになるためです。私たちの前にあるのは、粘り強く、丁寧で、懐深い、呪いをも変えうる神の祝福なのです。

3月31日(日)の礼拝は、創世記第50章1節〜26節から、「和解の祝福」と題してメッセージです。

卒園式がありました

3月19日(火)は天授ヶ岡幼稚園第65回卒園式がありました。

4年修了の方から1年修了の方まで、21名のお友達が卒園されました。一年一年、顔立ちも逞しくなり、背丈も伸びて、成長してこられた姿に感動を覚えます。私もたくさんの元気をいただきました。ほんとうにありがとう。お一人お一人の祝福をこれからも祈り続けます。

みんなで宣べ伝える

1ヶ月に一度、マルコによる福音書からメッセージです。前回一つの疑問を提示しました。「イエス様はなぜ悪霊に、ご自身のことについてもの言うことを許されないのか?」ということです。悪霊は人間よりイエス様のことを知っているのに。悪霊がもの言えば人間にも説得力があるのではないか。イエス様を伝えるのも楽ではないか。どう思いますか?ということで3月17日(日)のカフェスタイル礼拝では、マルコによる福音書第1章35節〜39節から、「みんなで宣べ伝える」と題してメッセージでした。

伝えるのは私たち

人々が怒濤のようにイエス様に押し寄せました。イエス様はおびただしい人を癒され、おびただしい悪霊を追い出されました。夜遅くまで対応されました。そして夜の明けるよほど前に起き出して『寂しい所(荒野)』でお祈りしておられました。ほとんど寝ていないのではないか?イエス様にとってお祈りこそ安息。父なる神様との語らいこそ一番リラックスできて元気になれる時。私たちのお祈りはもちろん、お互いの交わりもそうでありたいです。しかしそんな安らぎの時も終わります。人々がイエス様を追っかけてきた。追っかけも休みなし。イエス様はすかさず『ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教を宣べ伝えよう。わたしはこのために出てきた』と言われます。『みんなで行って』。悪霊はどんな存在か?悪霊のトップはサタン。神のようになろうとした堕天使。人間を訴える者。偽り者。そんなサタンの手下が悪霊。当然偽り者。信頼してはならぬ存在。確かにイエス様を見た悪霊の『神の聖者です』という叫びは真に迫っています。わが身を滅ぼす真の敵として認めていた。しかし悪霊が人に向かう場合、偽りを忍び込ませます。どこまで本当か嘘かわからなくなります。その手口は創世記第3章を見ればわかります。だからイエス様は決して悪霊に、ご自身のことについてもの言うことを許されなかった。当時、福音を伝えたのは、勝利の側にいた伝令です。神の子にして人間のイエス様の福音を伝えるのは、そしてイエス様の勝利を伝えるのは、敵の悪霊ではなく、イエス様の側にいる私たち『みんな』なのです。

伝えた先にイエス様が働かれる

29節『こうしてイエスのうわさは、たちまちガリラヤの全地方、いたる所にひろまった』。39節『そして、ガリラヤ全地を巡りあるいて、諸会堂で教を宣べ伝え、また悪霊を追い出された』。まずイエス様の噂を人が伝えました。そしてその後、イエス様と仲間たちが足を運び、癒やしと解放のわざをなさいました。福音とは、戦場の勝利の知らせを国に伝えることから始まります。伝令が伝えた後、本隊が戦利品を携えて凱旋。戦利品を分かち合い喜び合います。同時にその国の支配が広がっていきます。知らせの後に実体が来る。当時の福音のイメージとイエス様の福音のイメージが重ならないですか?でもまだ『神の子イエス・キリストの福音のはじめ』に過ぎません。とにかく。イエス様はイエス様のことが伝えられた所に必ず足を運ばれ、癒やしと解放を与え、神の国の支配を広げられるのです。イエス様の福音は、私たちみんなで伝えるのです。牧師だけの仕事じゃありません。伝令には褒賞が与えられました。イエス様の福音を伝える私たちみんなにも褒賞が与えられます。ではどうやって伝えるか?そのためにみなさんそれぞれに賜物が与えられているのです。諸教会にもそれぞれ違う賜物が与えられているのです。この教会は?カフェスタイル礼拝?焼き肉やカレーの香りが先に漂い、その後お腹を満たす。そのプロセスも福音のプロセスに似ていなくもないです。私たちはキリストの香りを放つものでありたいと思います。とにかく。それぞれの伝え方があるはず。その伝え方をみんなで持ち寄って、分かち合って、楽しんで活かし合って、イエス様の福音を伝えてまいりましょう。

3月24日(日)の礼拝は、創世記第49章1節〜33節から、「呪いを凌駕する神の祝福」と題してメッセージです。

カフェスタイル礼拝がありました

3月17日(日)はカフェスタイル礼拝でした。お食事をしながらの礼拝。メインメニューはカレーでした。カレー以外にもみなさん工夫を凝らしたおかずやスィーツを持ち寄って下さいました。

カレーと言っても見た目も味もみんな違います。大変美味しゅうございました。

聖書の言葉がそのままになった賛美やそれぞれが歌いたい!と思う賛美を味わいました。世の中の歌もたくさんありますが賛美も無数にあります。何百年と歌い継がれたものもあれば、最近の多様化している音楽スタイルのような今時の賛美もあります。小さい子供からお年寄りまでみんな賛美大好きです。

神の愛の真実

先週、インフルエンザにかかってしまい、急遽、私の母教会である京都聖徒教会の船田文子牧師にメッセージしていただきました。聖書はヨハネによる福音書第3章16節『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである』。そのメッセージ題は「神の愛の真実」でした。

私が小学生の頃、先生は大学生。その後、神学校に行かれ、母教会に伝道師として派遣されました。私は中学生の時洗礼を受けましたが、洗礼と信仰生活の学びを伝道師だった先生が導いて下さいました。今も母教会の牧師夫人としてご奉仕なさっています。そんな先生のメッセージを久しぶりに伺うことができて感謝でした。しかも福音が凝縮された有名なヨハネ3の16からのメッセージ。天授ヶ岡教会礼拝堂の、講壇の真上が吹き抜けで、そこに2階の牧師室の窓があります。窓を閉めていても礼拝堂の様子が手に取るようにわかります。私は牧師室で静養しながら、聖書の言葉と先生のメッセージに耳を傾けることができました。「信じるとは、自分の信心が大切なのではなく、『何様』を信じるかが大切だ」「『信じる』には二つしかない。イエス様を救い主と信じるか、イエス様は救い主じゃないと信じるかだ」という語りかけが印象的でした。大見得切って、大上段に、決死の覚悟で信じる、というよりも「イエス様は私の救い主なんですね!ありがとう!!」でいい。改めて信仰の「楽(らく)さ」を覚えました。体の回復と共に礼拝でゆったりとした安息をいただきました。

3月17日(日)の礼拝はカフェスタイル礼拝。マルコによる福音書第1章35節〜39節から、「みんなで宣べ伝える」と題してメッセージです。そして賛美も盛りだくさん!

祝福するヤコブ

創世記もいよいよ終わりに近づいてきました。祝福に始まった創世記は祝福を持って終わろうとしています。では祝福とは何だったか?神様の命があふれ、支配が行き渡り、愛が満ち満ちることです。ヤコブはかつて神様が祝福を約束して下さった言葉を思い起こし、子や孫を祝福しようとしています。かつて祝福を得ようと執念を燃やし、人から祝福を奪い取ろうとし、トラブルだらけだったヤコブ。しかし今や祝福する側に立つまでになった。ここから祝福する者、される者の姿を学びたい。ということで、3月3日(日)の礼拝は、創世記第48章1節〜22節から、「祝福するヤコブ」と題してメッセージでした。

ふさわしいか

ヤコブはヨセフを長子としました。第47章でヤコブは自分の葬りのことをヨセフにお願いしました。その時、ヤコブはヨセフを「拝み」ます。これは礼拝ではなく、跡取りとすることを意味します。葬りを取り仕切るのは長子の務めでした。そして第48章でヨセフの2人の子供をヤコブの子供としました。以後、ヨセフ族はこの子どもたちによる2部族扱いとなります。これは遺産相続が他の兄弟の2倍を意味します。これも長子の特権。ヤコブの長男はルベンです。ヨセフは11番目の子です。でもヨセフが長子。なぜ?他の兄弟に問題あり?ヤコブの好み?いえ。ヤコブは第47章でヨセフに「親切と誠実」を求めました。この言葉は神様の契約に基づく愛と真実を意味する言葉。それを人に使う場合は、その人がいかに神様に向いて聞いて従うかを求めるのです。ヨセフはこのことにおいて忠実でした。これが祝福を受けるにふさわしい者の姿なのです。

選ばれているか

ヨセフは長男マナセ、次男エフライムをヤコブの前に連れてきました。ヤコブは目が見えなくなっていました。そこでヨセフは、ヤコブの右手側に長男、左手側に次男を置きましたが、ヤコブは手をクロスさせて右手を次男の上に、左手を長男の上に置いて祝福しました。ヨセフは不満を述べましたが、ヤコブはわかってやっていました。またも常識と違う選択。長男よりも次男がふさわしかったのか?いえ。ヤコブは最晩年にエジプトに来たので孫たちをよく知りません。これには神様の預言的な選びがあったようです。祝福は神様が源。神様に向いて聞いて従う人に祝福は流れ広がる。まず神様ありき。かつてヨセフは、麦束や太陽や月や星(それは両親や兄弟)が「拝む」夢を見ました。神様の選びが先行する。まず神様、そして人。神と神のかたち。その両方があって祝福は受けつがれるのです。では人にも神様にも選ばれていない人がいるのか?

全ての人を祝福したい

『あなたを指して、イスラエルは、人を祝福して言うであろう、「神があなたをエフライムのごとく、またマナセのごとくにせられますように」』。かつてヤコブが兄エサウの長子の権利を奪った時、父イサクは兄エサウを祝福したくても祝福できませんでした。長子以外は祝福できなかった。しかしヤコブは子供も孫も、弟も兄も祝福しました。神様は全ての人を「神のかたち」として創造されました。命を満たし愛情を注ぎ生み出された。だから選ばれていない人はいません。みんな祝福したい。何番目の子か、誰の子か、どんな人か関係ない。「自分は悪い人間だ。だからふさわしくない」「自分は正しい人間だ。だからふさわしい」なんてことさえ関係ない。あなたが神様に向いて聞いて従う時、祝福はあなたのもの。あなたは祝福されるにも、祝福するにもふさわしい人なのです。

祝福するヤコブ。私たちも祝福する。どんな人のためにも。呪いたいと思える人のためにも。祝福は、その人がひどいことや悪いことをしていながら無病息災・商売繁盛になることを願うのではない。その人の中に神様の命と支配と愛があふれることを祈る。そうなればひどいことも悪いこともできなくなる。神のかたちが回復し、新しい歩みが始まる。それが真の祝福。まずは私たちが神様から祝福を受け取り、喜び楽しみ、共に祈りつつ、私たちならではの方法で分かち合ってまいりましょう。

3月10日(日)の礼拝は、創世記第49章1節〜33節から、「呪いを凌駕する神の祝福」と題してメッセージです。


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