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主が備えた場所

2024年1月14日(日)

本日は、故ドロシー・エレン・ホーア先生と故福田八重先生の追悼記念礼拝でした。両先生方の祈りとご奉仕のうちに、1949年にここ天授ヶ岡町に会堂が建てられてから今年で75年になります。主が備えてくださった場所に対する神様の言葉を聞きましょう。1月14日の礼拝は、出エジプト記23.20-33から「主が備えた場所」と題してメッセージです。

主が備えた場所

 イスラエルの人たちは「祭司の王国、聖なる国民」となるべく神様によって選ばれ、エジプトから救われましたが、その後好きな場所に行ったのではありません。主が備えた場所へと向かったのです。

天授ヶ岡教会も、主を礼拝し、福音をお伝えするべく天授ヶ岡に会堂が建てられ、今日まで守られてきました。主の守りと導きによって今があります。主が備えた場所だからと言って、困難や不安、疑いがなかったわけではありません。イスラエルもそうした中を通りました。しかし神様の憐れみと力はなお強く、イスラエルは辿り着き。領土を拡大します。主は真実なお方です。

その場所でなすべきこと

主が備えた場所に導く、そこでイスラエルの人たちに命じられたことは、アモリ人たちの神を拝んだり、仕えたり、風習にならったり、契約を結んではならないというものでした。それは、「祭司の王国、聖なる国民」を果たすため、また主の前に罪ある者とならないためです。厳しい言葉のようですが、神様は私たちの弱さをご存知で、私たちを失いたくなくて注意を与えているのです。

追い払われていくもの

そのとき、主が彼らを追い払う、と約束されます。これは昨今の戦争と考えてはいけません。そうではなく、私たちが主の御声に聞き従うとき、神なき世界の考えや声というものが追い払われていくのです。カナンでは豊作の祭りがありました。飢饉、命への不安があるからです。しかし神様は、主に仕えるならばパンと水を祝福する、と言われます。カナンに合わせる必要はありません。災害や健康、老後、さまざまな不安は尽きませんが、私たちは不安や心配、恐れではなく祝福を与えようとする神様がともにおられることを知っています。主を信じて喜び、不安が追い払われ、福音の領土の拡大を待ち望みましょう。

1月21日(日)の礼拝は、出エジプト記24.1-18から「神様との契約」と題してメッセージです。

心を知る

2024年1月7日(日)

今日は2024年最初の主日礼拝です。明日は成人の日、皆さまに、特に若い方々に神様の祝福をお祈りいたします。

十戒に続くこの「契約の書」と呼ばれる部分にはパッと見るとたくさんの決まり事が記されているように思いますが、一つ一つには神様の思いが込められています。今年も神様の思いを受け取っていきたいと思います。1月7日の礼拝は、出エジプト記23.1-19から「心を知る」と題してメッセージです。

元気を回復してほしい

 12節にある「七日目に働いてはならない」というのは、それ自体よりその理由が大切です。それは「女奴隷の子や寄留者が息をつくため」、別訳では「元気を回復するため」です。女奴隷の子どもにまで目を留めてくださるとはなんという配慮でしょうか!そしてこれは七年という期間にも当てはめられます。七年目には種を蒔いて収穫してはいけませんでした。その理由は、自然に実ったものを貧しい人や野生の動物が食べられるようにするためです。すべてを自分の所有と考えて、増産、安定を目指すのでなく、神様が必要を満たしてくださると信じて休み、子どもや貧しい方々を助けることが求められたのです。

感謝し信頼してほしい

14節以降の年に三度の祭りでは、神様の恵みを思い起こすとともに、ささげものを携えて礼拝することになっていました。礼拝では神様から恵みを受けることも大事ですが、それ以上に神様にささげることが大事です。なぜなら神様は奪うお方ではなく、それ以上に与えてくださっているお方だからです。これは神様への感謝と信頼がなければできることではありません。常に不安が襲うからです。だからこそ祭りを通して神様の恵みを思い起こしていくのです。

心を知る人でいてほしい

23章の前半には人との関わりについて書かれています。強い人や弱い人を偏り見て正しさを曲げないこと、憎んでいる人の家畜であっても倒れていたら起こすように言われています。かつて私たちは罪において訴えられ、罪の中に倒れていました。しかし神様は私たちの心のうめきを知り、ひとり子をも送ってくださいました。この神様の心を、かつての心を忘れてはいけません。

悲しい災害が起こりました。心に寄り添えることを考えていけますように。

1月14日(日)の礼拝は、出エジプト記23.20-33から「主が備えた場所」と題してメッセージです。

主に感謝することは良いことです

2023年12月31日(日)

一年最後の日を迎えました。今日は年末感謝礼拝です。詩篇92篇には「賛歌。安息日のための歌」と書かれていますが、詩篇90、91篇とバビロン捕囚というつながりの中で、ようやく解放されて礼拝できる喜びが歌われています。12月31日の礼拝は、詩篇92.1-16から「主に感謝することは良いことです」と題してメッセージです。

安息日は感謝がふさわしい

 ここには、朝も夜も、楽器で主に感謝をささげている姿が描かれ、主の御名をほめ歌う喜びと楽しさが伝わってくるようです。主がなさったことや御手のわざが賛美されています。

私たちはこの一年どういう気持ちで礼拝をおささげしたでしょうか。感謝をもって喜んで礼拝したときもあれば、不安や嘆きの中で主を見上げたこともあったと思います。

しかしこうして礼拝に集うことで、歴史を通して確かに働かれた神に出会い、兄弟姉妹の生活のただ中に証しされる主を仰ぎ見ます。そのときに、確かに今も生きておられ、守っていてくださる主に目を向けていくことができます。

主のみわざの大きさを認める

主に感謝ができないのは、もしかしたらあまりにも、狭く、近く、物事を見すぎているからかもしれません。主は永遠にいと高きところにおられるゆえに、主のみわざは大きく、御思いは深いです。もっと大きな祝福の計画のうちに主が進めておられても、「無思慮な者は知らず、愚か者にはこれが分かりません。」(9)

今は分からなくても、さまざまな出来事を神様は愛と祝福の内に持ち運んでおられることを信じましょう。

感謝を生い茂らせる

無思慮で愚か者とは対照的な人の姿が「正しい者」(12)として記されています。バビロン捕囚という背景からその人は植物に例えられ、再び主の家に植えられる祝福が描かれます。彼らは何もできないと思われる年老いたときでさえなお、実を実らせ、青々と生い茂ると言われます。もし信仰が何かできることならこうならないでしょう。しかし感謝することであれば、生い茂らせていくことができます。感謝を生い茂らせながら、この一年も終えられますように。

1月7日(日)の礼拝は、出エジプト記23.1-19から「心を知る」と題してメッセージです。

この方こそ主キリスト

2023年12月24日(日)

本日はクリスマス礼拝です。教会も飾り付けをしていつもよりウキウキ、ワクワクしますが、今日の聖書の舞台は夜です。真っ暗な夜。それは私たちの心を象徴しているようです。悲しく辛い出来事から夜のように感じたり、あるいは誰にも触れられたくない、聞かれたくない過去や傷が心の闇になっていたり。しかしそのような真っ暗な夜に神様の光が差した、これがクリスマスです。12月24日の礼拝は、ルカの福音書2.1-20から「この方こそ主キリスト」と題してメッセージです。

場所のないイエス様

 皇帝の命令で住民登録をすることになったヨセフとマリアはベツレヘムへと向かい、そこでイエス様はお生まれになります。しかしイエス様が生まれて寝かされたのは飼葉桶でした。その理由は「宿屋には彼らのいる場所がなかったから」です。これは単に宿屋が満室だったというよりも、人の心の状態ではないでしょうか。すなわち、救い主イエス様をあなたの心にお迎えする場所はありますか?ということです。

イエス様をお迎えし、仕えた人たちは、平和とゆとりの内に過ごします。忙しく日常生活で慌ただしいとき、そこにイエス様の「場所」はあるでしょうか。

羊飼いに会われたイエス様

イエス様の誕生はまず羊飼いに知らされます。エサのために町に住むことも、神殿で過ごすことも、社会生活を共にすることもできない人たちなのに、です。それはイエス様に会うことができない人はいないということです。彼らは「恐れることはない、あなたがたのために救い主が生まれた」と聞きます。イエス様はあなたのために生まれました。信じられますか?羊飼いもそう思ったでしょう。しかし聖書は告げます。「あなたのために生まれた。あなたのために来た」と。

飼葉桶に寝かされたイエス様

イエス様が生まれて飼葉桶に寝かされたことはここに三度も書かれます。すべてのものを持ち、権力と権威の源であるお方が飼葉桶に寝かされたのは、紛れもなく私たちのためです。私たちと共にいるためにすべてを捨てて低くなられたのです。神であるお方が人として生まれ、場所もなく、飼葉桶に寝かされ、羊飼いに告げられた。それは私のためであると驚きと感動をもって信じます。

12月31日(日)の礼拝は、詩篇92.1-15から「主に感謝することは良いことです」と題してメッセージです。

神の深いあわれみ

2023年12月17日(日)

口がきけなくなっていたザカリヤでしたが、「その子の名はヨハネ」と書き記した瞬間、ものが言えるようになり神様を賛美しました。このザカリヤの預言は「ほむべきかな」で始まるので「ベネディクトゥス」(ラテン語)と呼ばれています。ここでザカリヤは神様の救いとヨハネの使命について語ります。12月17日の礼拝は、ルカの福音書1.67-80から「神の深いあわれみ」と題してメッセージです。

神が私のところへやってきた

 なぜ主は「ほむべきかな」なのでしょうか。それは「主がその御民を顧みて」くださったからです。この顧みるという言葉には「見る」という意味が込められていますが、実は同じ言葉が78節の「訪れ」にも使われています。神様はご自分の民を見ていてくださる。見て訪れてくださる、だからほむべきかなとザカリヤは賛美したのです。

待降節、私たちは何を待つかと言えば、神様が私を訪れてくださった出来事(クリスマス)、そして再び訪れてくださることを待つのです。

敵の手からの救い

神様はご自分の民を顧み、敵の手から救うとザカリヤは預言しました。敵とは何なのでしょうか。74節を見ると、「敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる」と言っています。つまり、敵は恐れなく主に仕えることを阻んでいるのです。

恐れなく、すべての日々において敬虔に、正しく主に仕えているか?と問われると顔を上げることもできない自分がいます。しかし、主に仕えるとは、特別な何かではなく、主と共に喜んで生きること。それを阻むような不安や恐れ、疑いや心配こそ、敵ではないでしょうか。主はここから救い出してくださるのです。

暗闇から平和の道へ

そしてヨハネこそ、このことを気付かせるために主に先立って遣わされたのです。私たちは教えられなければ、こうしたことも分からない暗闇の中にいます。しかし神の深いあわれみは、そんな私たちを訪れ、闇の中にいる私たちとそこから救い出してくださる主を照らし、神様と共に生きる平和の道を歩ませます。この私たちの姿を通して、共に平和の道を歩む方が起こされますように。

12月24日(日)の礼拝は、ルカの福音書2.1-20から「この方こそ主キリスト」と題してメッセージです。

静かな目撃者

2023年12月10日(日)

ザカリヤが神殿で御使いに会ったとき、ザカリヤは神殿で仕える祭司であり年寄りでありました。他の人達よりも多く聖書を学び、長い間たくさんの祈りをささげてきたことでしょうが、いざ神様から「男の子が生まれる」と告げられたとき、ザカリヤは口がきけなくなります。時が来れば実現する神の言葉を信じなかったからです。ザカリヤは話すことができないまま、いよいよその「時」を迎えたのが今日の場面です。12月10日の礼拝は、ルカの福音書1.57-66から「静かな目撃者」と題してメッセージです。

いいえを言ったエリサベツ

 エリサベツは超高齢でありながら無事男の子を出産します。八日目、慣習に従って割礼と命名をします。当時は父親の名前にちなんで名づけられるのが至極当然のことで、近所の人や親族はザカリヤとつけようとします。しかしエリサベツは答えます。「いいえ!名はヨハネとしなければなりません。」そして父親であるザカリヤも「その子の名はヨハネ」と言います。これまでの慣習よりも、周りの人の意見よりも、神に従う二人は、神様の言われたことを選びました。

いいえを言い表したザカリヤ

二人が受け入れたのはヨハネという名前だけではありません。御使いから語られていたヨハネの使命も受け止めたのです。祭司の家系に生まれたから祭司というしきたりにもいいえ、を言ったのです。ヨハネと名づけることで、生まれてきたヨハネを自分の思い通りにするのではなく、神様のこどもとして受け止めたということを言い表しているのです。

それは静かな時間で

ザカリヤがこのとき聖書の言葉を思い巡らしていたことは後の賛歌から伺えます。ザカリヤはあのとき信じなかったから罰として口がきけなくされたのでしょうか。他の人の声が全く聞こえない、神様との会話の中で、きっとザカリヤは「あなたの不安や戸惑いもわかっている。でもわたしのことを信じてほしい。わたしを見ていてほしい。あなたの祈りをおぼえている(ザカリヤ)。わたしは情け深いから(ヨハネ)。」こうしてザカリヤは神様のことばを受け止める時間と信仰を与えられたのです。罰ではなく、ザカリヤにこの神様の言葉だけを聞かせるためだったのです。主よ、私にもあなたの声を聞かせてください。

12月17日(日)の礼拝は、ルカの福音書1.67-80から「神の深いあわれみ」と題してメッセージです。

神がわたしに目を留める

2023年12月3日(日)

今日は待降節第一週の礼拝です。英語ではアドベントですが、そこから派生した言葉にアドベンチャーがあります。予期せぬ出来事や冒険という意味です。今読んでいるエリサベツとマリアはまさに約二千年前、予期せぬ出来事に直面した人たちです。予期せぬ御使いとの出会い、予期せぬお告げにひどく戸惑い、考え込んでマリアですが、今日のところではエリサベツに幸いな人と呼ばれ、自分自身も幸いな者と言っています。それはなぜでしょう。12月3日の礼拝は、ルカの福音書1.38-56から「神が私に目を留める」と題してメッセージです。

語られたことが実現するから

 エリサベツは突然のマリアの訪問を喜び、聖霊に満たされてマリアを「私の主の母」と呼びます。そしてまだお腹の大きくなっていないマリアに向かって「信じている人は幸いです。神様が語られたことは必ず実現するからです」と言いました。エリサベツは自分の理解や見ていることを越えた神様のわざをマリアに見ました。マリアは語られたことが実現すると信じていると分かったのです。

神様は日々に、聖書を通し、人の言葉を通し、私たちに語りかけてくださっています。神様は必ず実現する言葉として私たちに語っていてくださるのです。

目を留めてくださったから

それを受けてマリアは主に賛美をささげます。それはこんな卑しいはしためにも神様が目を留めてくださったからです。私たちが買い物に行ってやはり目を留めるものがあります。神様は私たちをまるで他の人などいないかのように私を、あなたを見つめます。神様の目は私に、あなたに注がれます。どこにでもいそうな平凡な女の子であるマリアに神様は目を留め、大きなことをしてくださった、だから幸せだと賛美するのです。

マリアは自分の小ささを知っていました。同時にそれは神様がどれほど偉大なお方であるかを知ったのです。神様はご自身の偉大さを私たちに教え、私たちは自分が小さい者にしか過ぎないことを知っていくのです。

主はいつまでもあわれみを忘れておられない

マリアはこの出来事を自分のことだけだと思わず、アブラハムとその子孫に対するあわれみだと受け取りました。この世界大のわざのために神様は私たちに目を留められました。へりくだるアドベントとなりますように。

12月10日(日)の礼拝は、ルカの福音書1.57-66から「静かな目撃者」と題してメッセージです。

ふつうの者が聖なる者へ

2023年11月26日(日)

神様は私たちがどのような者であることを望んでおられるのでしょうか。

聖書ははっきりと神が私たちを造られたのであって、その逆ではないと教えています。神様が私たちを造られたとき、どのような者としてお造りになられたのでしょうか。どのような者として全世界に神様をお伝えしていくのでしょうか。11月26日の礼拝は、出エジプト記22.18-31から「ふつうの者が聖なる者へ」と題してメッセージです。

聖なる者?

 神様はイスラエルに対して「あなたがたは、わたしにとって聖なる者でなければならない」と言われました。この言葉は旧約聖書にも新約聖書にも出てくる大事な言葉ですが、聖なる者とはどういう人のことでしょうか。

もし「聖」を罪の無さや完全さと思うなら、途方もない目標になって、自分を見ては落ち込み、人を見ては裁いてしまいます。この言葉の前後に書いてあることを見てみましょう。

神がどんなことをしてくださったのか

18-20節に列挙されている死刑となるような事柄は、神様がそれほどまでに「しないで!」と私たちに訴えているものです。なぜそう言われるのかは、それらが神様を神とせず、他の神々や人を頼りにすることだからです。

イスラエルの人たちは長子をささげることによって神様が出エジプトでして下さったことをその度に思い起こし、その感謝はささげものとして表していました。日常の食事においても、野で獣に噛み裂かれた肉を食べませんでした。

神様が私のためにどんなことをしてくださったのか、今どんな者とされているのか、長子をささげることや食べないことでいつも思い起こしていたのです。

元々何者だったのか

21-27節では弱い立場の人を苦しめてはならないと言われます。それは主が情け深いお方であるからです。そしてイスラエルに元々自分たちは何者であったのかを覚えているように言います。今あるのは神様の恵みであって、へりくだって、手を差し伸べるよう教えます。神様によって選び分けられた聖なる者は、元々どんな者であり、神がどんなことをしてくださったのかを心に留めている者。神への感謝と信頼、人への情け深さに神様の「聖」が表されます。

12月3日(日)の礼拝は、ルカの福音書1.39-56から「神がわたしに目を留める」と題してメッセージです。

ともに生きるということ

2023年11月19日(日)

神様は、救われた神の民がどのようにして一緒に過ごしているかということを重視しています。それは一緒に過ごすということが、三位一体の神様のご性質を表すものだからです。神様は私たちをそのような交わりに入れてくださったばかりか、お互いがそのような交わりを持つことを願っておられます。その交わりを通して、聖書の神をほとんど知らないところにおいても神様の素晴らしさが証しされていくのです。11月19日の礼拝は、出エジプト記22.1-17から「ともに生きるということ」と題してメッセージです。

最上のものをもって償う

 ここにはいわゆる窃盗罪、器物損壊罪に当たる事柄が当時のイスラエル社会を背景にして書かれています。当時、家畜は食料であり、農作業に必要であり、ゆえに財産でもありました。これらが盗まれることは、持ち主の生活や生命に関わることです。したがって幾倍にして償うことが定められました。もし自分の家畜が他人の畑を荒らした場合は、最上のものをもって償います。相手に損害を与えることがあっても償うことでまた社会に戻る道が備えられているのです。誠実な謝罪とゆるしの交わりがここにはあります。

神様から与えられているものを管理する

金品や物品、家畜をご近所の方に預けるという習慣がありました。銀行などない時代です。このとき、預かりものに対して預かり主はきちんと神様の御前に誓えるほどに管理することが求められ、盗んだ人には償いが定められました。盗むということは、その行為の奥底に「これでは足りない」「あれが欲しい」という思いがあります。しかし私たちの父なる神様は私たちの必要をご存知です。足りない、あれがなければいけないというのは、神様ではなく物に信頼することです。神様の望まれない使い方をしていないか、自分と人に神様が与えてくださったものとして見ているかが問われます。

それでも一緒に過ごす

盗んでしまった人、管理を誤った人、その人も償いをすることでまた一緒に過ごすことができました。一緒に過ごすことでトラブルは起きますが、こうした償いの定めは、ゆるされてまた一緒に過ごすことを可能にします。一緒にいることはそれほど大事なのです。神様の愛の深さを示すことになるからです。

11月26日(日)の礼拝は、出エジプト記22.18-31から「ふつうの者が聖なる者に」と題してメッセージです。

良い関係を築くために

2023年11月12日(日)

今、読んでいる聖書の箇所は、神様がイスラエルを通して世界中に神様の素晴らしさと祝福を伝え届けるという招きにイスラエルが応えた文脈の中に置かれています。そのためには何か特別なことをするのではなく、普段の生活が変えられていくことが期待されています。イスラエルの民も私たちも集団生活の中にあって、人を傷つけ、人に傷つけられることがあります。そんなとき神の民は。11月12日の礼拝は、出エジプト記21.12-36から「良い関係を築くために」と題してメッセージです。

神様が悲しまれ嫌われるもの

 ここには「必ず殺されなければならない」ものとして、殺人、誘拐、父母への肉体、言葉の暴力が挙げられています。それが過失の場合は、復讐を逃れる場所に行くことができますが、故意ならば自分の命で償わなければなりません。

私たちはすべての人が神様によって造られました。望まれて生まれてきた人も、望まれずに生まれた人も、神様はその誕生を望まれたのです。ですから自分勝手な理由で人の命を奪うことは許されていません。ただ「殺されなければならない」と刑罰を言っているのではなく、「それだけはやめて!」という神様の叫びがここには込められています。

人の命も、持ち物も大切にする

これらの定めは人の身体や持ち物を傷つけた人に対する罰則の面よりも、むしろ傷つけられた人の生活と命の回復の面に焦点が当てられています。傷つくと復讐に燃えたくなりますが、「目には目を、歯には歯を」、憎しみはここまで、と過度な復讐に走ることがないよう、怒りをストップさせることです。なぜなら復讐は復讐をうみ終わることがなく、自分自身がさらに傷の深みにはまってしまうからです。

御言葉に照らされるとき、この時代に生きていたら自分はどれほど神様にも人にも償わなければならないだろうかと思います。とても償いきれない。そんな私たちのためにイエス様はご自分の命を差し出し、償ってくださいました。今や私たちの罪は神様に思い出されないほど赦されています。

故意に、気づかずに、分かってはいたけれどやめられずに傷つけてしまう自分であることを認めて、自分の責任の中で償っていくことができますように。良い関係を築き続けるために。

11月19日(日)の礼拝は、出エジプト記22.1-17から「ともに生きるために」と題してメッセージです。


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