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ふつうの者が聖なる者へ

2023年11月26日(日)

神様は私たちがどのような者であることを望んでおられるのでしょうか。

聖書ははっきりと神が私たちを造られたのであって、その逆ではないと教えています。神様が私たちを造られたとき、どのような者としてお造りになられたのでしょうか。どのような者として全世界に神様をお伝えしていくのでしょうか。11月26日の礼拝は、出エジプト記22.18-31から「ふつうの者が聖なる者へ」と題してメッセージです。

聖なる者?

 神様はイスラエルに対して「あなたがたは、わたしにとって聖なる者でなければならない」と言われました。この言葉は旧約聖書にも新約聖書にも出てくる大事な言葉ですが、聖なる者とはどういう人のことでしょうか。

もし「聖」を罪の無さや完全さと思うなら、途方もない目標になって、自分を見ては落ち込み、人を見ては裁いてしまいます。この言葉の前後に書いてあることを見てみましょう。

神がどんなことをしてくださったのか

18-20節に列挙されている死刑となるような事柄は、神様がそれほどまでに「しないで!」と私たちに訴えているものです。なぜそう言われるのかは、それらが神様を神とせず、他の神々や人を頼りにすることだからです。

イスラエルの人たちは長子をささげることによって神様が出エジプトでして下さったことをその度に思い起こし、その感謝はささげものとして表していました。日常の食事においても、野で獣に噛み裂かれた肉を食べませんでした。

神様が私のためにどんなことをしてくださったのか、今どんな者とされているのか、長子をささげることや食べないことでいつも思い起こしていたのです。

元々何者だったのか

21-27節では弱い立場の人を苦しめてはならないと言われます。それは主が情け深いお方であるからです。そしてイスラエルに元々自分たちは何者であったのかを覚えているように言います。今あるのは神様の恵みであって、へりくだって、手を差し伸べるよう教えます。神様によって選び分けられた聖なる者は、元々どんな者であり、神がどんなことをしてくださったのかを心に留めている者。神への感謝と信頼、人への情け深さに神様の「聖」が表されます。

12月3日(日)の礼拝は、ルカの福音書1.39-56から「神がわたしに目を留める」と題してメッセージです。

ともに生きるということ

2023年11月19日(日)

神様は、救われた神の民がどのようにして一緒に過ごしているかということを重視しています。それは一緒に過ごすということが、三位一体の神様のご性質を表すものだからです。神様は私たちをそのような交わりに入れてくださったばかりか、お互いがそのような交わりを持つことを願っておられます。その交わりを通して、聖書の神をほとんど知らないところにおいても神様の素晴らしさが証しされていくのです。11月19日の礼拝は、出エジプト記22.1-17から「ともに生きるということ」と題してメッセージです。

最上のものをもって償う

 ここにはいわゆる窃盗罪、器物損壊罪に当たる事柄が当時のイスラエル社会を背景にして書かれています。当時、家畜は食料であり、農作業に必要であり、ゆえに財産でもありました。これらが盗まれることは、持ち主の生活や生命に関わることです。したがって幾倍にして償うことが定められました。もし自分の家畜が他人の畑を荒らした場合は、最上のものをもって償います。相手に損害を与えることがあっても償うことでまた社会に戻る道が備えられているのです。誠実な謝罪とゆるしの交わりがここにはあります。

神様から与えられているものを管理する

金品や物品、家畜をご近所の方に預けるという習慣がありました。銀行などない時代です。このとき、預かりものに対して預かり主はきちんと神様の御前に誓えるほどに管理することが求められ、盗んだ人には償いが定められました。盗むということは、その行為の奥底に「これでは足りない」「あれが欲しい」という思いがあります。しかし私たちの父なる神様は私たちの必要をご存知です。足りない、あれがなければいけないというのは、神様ではなく物に信頼することです。神様の望まれない使い方をしていないか、自分と人に神様が与えてくださったものとして見ているかが問われます。

それでも一緒に過ごす

盗んでしまった人、管理を誤った人、その人も償いをすることでまた一緒に過ごすことができました。一緒に過ごすことでトラブルは起きますが、こうした償いの定めは、ゆるされてまた一緒に過ごすことを可能にします。一緒にいることはそれほど大事なのです。神様の愛の深さを示すことになるからです。

11月26日(日)の礼拝は、出エジプト記22.18-31から「ふつうの者が聖なる者に」と題してメッセージです。

良い関係を築くために

2023年11月12日(日)

今、読んでいる聖書の箇所は、神様がイスラエルを通して世界中に神様の素晴らしさと祝福を伝え届けるという招きにイスラエルが応えた文脈の中に置かれています。そのためには何か特別なことをするのではなく、普段の生活が変えられていくことが期待されています。イスラエルの民も私たちも集団生活の中にあって、人を傷つけ、人に傷つけられることがあります。そんなとき神の民は。11月12日の礼拝は、出エジプト記21.12-36から「良い関係を築くために」と題してメッセージです。

神様が悲しまれ嫌われるもの

 ここには「必ず殺されなければならない」ものとして、殺人、誘拐、父母への肉体、言葉の暴力が挙げられています。それが過失の場合は、復讐を逃れる場所に行くことができますが、故意ならば自分の命で償わなければなりません。

私たちはすべての人が神様によって造られました。望まれて生まれてきた人も、望まれずに生まれた人も、神様はその誕生を望まれたのです。ですから自分勝手な理由で人の命を奪うことは許されていません。ただ「殺されなければならない」と刑罰を言っているのではなく、「それだけはやめて!」という神様の叫びがここには込められています。

人の命も、持ち物も大切にする

これらの定めは人の身体や持ち物を傷つけた人に対する罰則の面よりも、むしろ傷つけられた人の生活と命の回復の面に焦点が当てられています。傷つくと復讐に燃えたくなりますが、「目には目を、歯には歯を」、憎しみはここまで、と過度な復讐に走ることがないよう、怒りをストップさせることです。なぜなら復讐は復讐をうみ終わることがなく、自分自身がさらに傷の深みにはまってしまうからです。

御言葉に照らされるとき、この時代に生きていたら自分はどれほど神様にも人にも償わなければならないだろうかと思います。とても償いきれない。そんな私たちのためにイエス様はご自分の命を差し出し、償ってくださいました。今や私たちの罪は神様に思い出されないほど赦されています。

故意に、気づかずに、分かってはいたけれどやめられずに傷つけてしまう自分であることを認めて、自分の責任の中で償っていくことができますように。良い関係を築き続けるために。

11月19日(日)の礼拝は、出エジプト記22.1-17から「ともに生きるために」と題してメッセージです。

自由の身となるよりも

2023年11月5日(日)

聖書の教える神様は、決して遠く離れて見守っているのではなく、私たちの生活のただ中におられることを教えています。たとえば今日の聖書の箇所では奴隷について書かれており、現代の日本に生きる私たちにはあまり関係がないように見えますが、当時のイスラエルの民にとっては身近な事柄でありました。11月5日の礼拝は、出エジプト記21.1-11から「自由の身となるよりも」と題してメッセージです。

七年目に自由となる奴隷

 神様によってエジプトでの長い奴隷生活から導き出され、神様の宝として生きるイスラエルの民が守るべき定めとして、神様は奴隷について取り上げます。普通、こうした奴隷の定めは主人が奴隷を扱いやすくするのが常ですが、神様の目は主人ではなく奴隷に向けられます。奴隷が当たり前の社会にあって、なくす非現実的なことよりも奴隷の生活や命がどうしたら守られるかを教えています。

へブル人の男奴隷を買う場合、六年間は働きますが七年目には自由となります。イスラエルの民がエジプトで長い間奴隷だったことを思えば考えられないことです。また基本的には奴隷は「来た状態で」去りますが、主人によって妻子が与えられたときは主人のもとで妻子とともに留まることができます。奴隷でも自由となることができ、主人のもとで家庭をもつ選択ができました。

三つのことが減らされない奴隷

次に女奴隷について、主人は女奴隷を妻として保護するか、気に入らなくてもまた新しい主人のもとで保護されるよう配慮することが定められています。息子の嫁とするならば娘のように、別の女性を妻とする場合でも、食べ物、衣服、夫婦の務めの三つを減らしてはいけませんでした。女性の生活を保護し、母親となることを妨げることがないようにするためです。

きっと誰もが奴隷になりたくてなったわけではなく、様々な事情のもとで奴隷となったのでしょうが、七年目には自由になり、再スタートする道が備えられ、奴隷の間も生活や命が脅かされることのないよう定められたものでした。

 私たちは今や神のしもべとして神様の保護のもと、さまざまな恵みをいただいています。この主人のもとを去ることなく、私の耳を主につけて、主に聞き従うことができますように。

11月12日(日)の礼拝は、出エジプト記21.12-36から「良い関係を築くために」と題してメッセージです。

おことばどおりに

2023年10月29日(日)

エルサレム神殿で祭司として仕えていたザカリヤとは打って変わって、御使いはガリラヤのナザレといういなかに住む、いたって普通の女の子マリアのところに現れます。御使いとマリアの会話に思いを馳せましょう。10月29日の礼拝は、ルカの福音書1.26-38から「おことばどおりに」と題してメッセージです。

「おめでとう、恵まれた方。」

 マリアに現れた御使いは「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と語りかけます。おめでとうとは挨拶の言葉ですが、御使いはマリアを恵まれた方と呼びます。それは主がマリアとともにおられるからです。

恵みとは受けるに値しない者に与えられるもののことです。私たちも普段神様から多くの恵みをいただいていますが、一番の恵みはこの一年も主がともにいてくださったことです。特に神様がともにおられることを感じた出来事があれば、書き残し分かち合いたいと思います。

「神にとって不可能なことは何もありません。」

受胎告知をされたマリアはどうしてそんなことが、と聞きます。その答えは「聖霊が臨み、いと高き方の力」がマリアを包むからです。そして御使いは言います。「神にとって不可能なことは何もありません。」これは「神にとって語られたことばに不可能なことは何もない」という意味です。神には何でもできる、というのは、神様が語られたことばにおいて、ということなのです。ですから私たちは神様の言葉である聖書を読み、思い巡らし、その通りに信じるのです。

「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」

 ですからマリアも「あなたが語られた神様の言葉が私の上に実現しますように」と答えています。主のはしためであるマリアは、人知をこえた神様の言葉を聞き、神様の言葉が自分の上に実現することを信じたのです。

ただこの決断は決して簡単ではなかったと想像できます。親は、周りの人は、何よりヨセフはどう思うだろうと考えたでしょう。しかしマリアは人がどう思うかよりも神様がどう思うかを選びました。

神様の口から出る言葉を日々どのように聞いているでしょうか。神様の言葉が私に実現する、と信じて、御言葉を内に宿すことができますように。

11月5日(日)の礼拝は、出エジプト記21.1-11から「自由の身となるよりも」と題してメッセージです。

時が来れば実現する神のことば

2023年10月22日(日)

イエス・キリストの誕生に先立って書かれたこのバプテスマのヨハネの誕生には、時が来れば実現に至らせることのできる神様のご介入がありました。それは「むかーしむかし、あるところに…」という不確かな話ではなく、はっきりと「ユダヤ王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司」に起こった出来事でした。10月22日の礼拝は、ルカの福音書1.5-25から「時が来れば実現する神のことば」と題してメッセージです。

神様はいつもの中で語りかけられる

 ザカリヤは妻エリサベツとともに敬虔な生活を送るも、子どもが与えられませんでした。何度も祈ったことでしょうが、それももう望み得ない年になり、祭司としての務めを全うすることだけを考えていたのではないでしょうか。

そんなザカリヤがいつものように祭司としての務めをしているときに、神様は語られます。「恐れることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられた。」と。ザカリヤのいつもの日常が変わります。

特別な時だけでなく、いつもの礼拝、いつもの日常で神様は語りかけています。

神様は願いを覚えておられる

確かにザカリヤは敬虔な祭司ではありましたが、当時の社会的に見れば高齢で子どもがいないというのはとても恥ずかしく肩身の狭いことでした。しかし神様が願いを聞き入れられたのは、人からも自分でももう何の可能性もない、と思っているザカリヤです。神様の目はザカリヤに向けられました。やがてザカリヤが授かるヨハネは預言にもある偉大な人物となりますが、そのヨハネが仕える救い主がお生まれになるという壮大なご計画へとつながっていきます。

神様は私たちの祈りを忘れておられないだけではなく、ご自分のご計画のために最善の時に答えてくださいます。祈りは失望で終わりません。

神のことばの実現を待ち望む

 ザカリヤは高齢ゆえに信じられず口が聞けなくなりますが、ずっと信じずにいたわけではありません。家に帰ってエリサベツに伝え、二人は信仰を働かせて応答し、エリサベツは妊娠します。やがてヨハネが生まれたときに、ザカリヤがまず発した言葉は「ほむべきかな、イスラエルの神、主」でした。

 信じられない、信じたくない神様のことばにどう向き合っているでしょうか。

10月29日(日)の礼拝は、ルカの福音書1.26-38から「おとこばどおりに」と題してメッセージです。

教えを確かにする

2023年10月15日(日)

ルカの福音書1章1-4節は序文にあたり、なぜこの福音書が書かれたのか、何がこの福音書に書かれてあるのかが記されています。著者であるルカは、すでに多くの人が書き上げようとしていた事柄を、初めから、綿密に、順序立てて書き上げました。すなわち、イエス・キリストが行い始め、また教え始められたすべての事柄についてです。10月15日の礼拝は、ルカの福音書1.1-4から「教えを確かにする」と題してメッセージです。

苦しみからも離れなかったルカ

 ルカの福音書は他の福音書とは異なり、イエス様の誕生(さらにバプテスマのヨハネの誕生)から始まります。イエス様の弟子ではなかったルカですが、「綿密に」の言葉の通り、イエス様について多くを調べ上げて記しました。そんな著者ルカは、パウロの手紙に数回名前が出てきます。ルカがパウロのそばにいて、パウロをよく支えていたことが伺えます。パウロの晩年、迫害がもっとも激しいときにもルカはパウロのそばから離れることはありませんでした。それはルカが直接見たことはなくてもイエス様の十字架を目の当たりにするかのように受け止め、また迫害の中にあるパウロの祈りと喜々とした姿を見ていたからです。イエス様の華やかさではなく、受難を通して信仰は培われます。主のために、主とともに苦しむ中に私たちの信仰は堅くされます。主の恵みによって。

受けた教えを確かにしよう

ルカはテオフィロが受けた教えが確かであることが分かってほしいとこの福音書を書き記しました。私たちも聞いたこと、信じていること、教えられたことが、本当であるかどうか、聖書にあることなのかどうかを確かにすることは大切です。一つ一つの御言葉がここに書いてあると、こう教えていると、聖書にいつも立ち返って進みたいと思います。

あなたのために、ルカの思い

 ルカは自分が受けた教えを確かにしただけでなく、テオフィロが受けた教えを確かにするよう熱い思いをもって書き上げました。人は自分が聞いただけではすぐに忘れてしまうことが多いのですが、人に教えるときに忘れにくくなります。一人ひとりがいつも教えを確かにすることができますように。一人を導く思いで、誰かのために教えを確かにするお手伝いができますように。

10月22日(日)の礼拝は、ルカの福音書1.5-25から「時が来れば実現する神のことば」と題してメッセージです。

いい教会にしよう

本日は、水野晶子牧師がローマ人への手紙12.1-18から「いい教会にしよう」と題して御言葉を取り次がれました。

あふれる教会

本日10月1日(日)は八幡福音教会との合同礼拝でした。

コロサイ人への手紙2章6-7節より、「あふれる教会」と題して、

内田純牧師が御言葉を取り次いでくださいました。

農夫である神

本日9月24日(日)の礼拝は、京都信愛教会、明野キリスト教会との合同礼拝でした。

ヨハネの福音書15章1-6節より、「農夫である神」と題して、大頭眞一牧師より

御言葉が取り次がれました。


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