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自分のためか、神様のためか

2023年9月17日(日)

出エジプト記19章で神様と契約を結んだイスラエルは、20章で十戒を授かりました。ここには、神を「神」とすることと、神の民としての人との関わり方について書かれています。神の民とされた人は神様の言葉に合わせます。9月17日の礼拝は、出エジプト記20.18-26から「自分のためか、神様のためか」と題してメッセージです。

「欲しい」から始まる

 イスラエルにこの十戒を与えたのは、他の誰でもなくエジプトからイスラエルを導き出した主なる神様です。十戒は、導き出した神様が導き出された民に与えられたものです。

十戒の最後は「…欲しがってはならない」です。それまでの「殺すな」「姦淫するな」という行為に対して、心、思いに焦点が当てられています。「欲しい」からすべての罪が生じるからです。アダムとエバ、ダビデもそうでした。しかし欲しがるな、と言われたから欲しがらなくなる、ということはありません。神様はこう言われただけではなく、この思いから解放されるよう聖霊を私たちに与えてくださいました。聖霊は、それがなければならない不安や欲望から解放し、主をお喜ばせしたい思いへと私たちを導いてくださいます。

神様を恐れる

このあと再び、十戒が語られた場面が描かれます。イスラエルの人たちの恐怖や緊張感が漂っています。これは彼らが神様とその言葉を侮ることがないようにするためでした。今も、神様と神様の言葉の前に、緊張感をもって臨む私たちの姿は、他の方々に主を証しすることになります。

神様のために

 22節からはいわゆる「契約の書」と呼ばれる部分になります。ここには神様がどのように礼拝されたいのかが書かれてあります。神様は「自分のために神々を造るな」「わたしのために祭壇を造れ」と言われました。イスラエルの民はこれまでエジプト風の宗教儀式を持っていたでしょうが、これからは全く違う方法で神様を礼拝するように教えられます。神の民として生きることを願うのなら、慣れ親しんだやり方や思いを捨てて、神様のやり方に合わせていくのです。柔らかな頭と心で、神様が今語られることに従っていきましょう。 9月24日(日)の京都信愛教会、明野キリスト教会との合同礼拝は、ヨハネの福音書15.1-6から「農夫である神」と題してメッセージです。

神様のもとで変わる

2023年9月10日(日)

出エジプト記と聞いて思い浮かべるのは、ファラオに10の災いがくだったことでしょうか。あるいは目の前には海、後ろにはエジプト軍というところで海が二つに割れて、その中を渡ったことでしょうか。実は出エジプト記のクライマックスはここ、十戒にあります。これまでのすべての出来事はここに向かっていたのです。ここだけを読むと「してはならない」とか「せよ」とか、まさに戒めのようですが、これは私たちを縛るものではなくて、むしろ今までの当たり前から解き放つためのものです。9月10日の礼拝は、出エジプト記20.1-21から「神様のもとで変わる」と題してメッセージです。

わたしは、あなたの神、主である

 この十戒は「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」ということばから始まります。他の誰でもない、イスラエルを救い、導き出した神様のことばです。神様がこの十戒のことばを語られたのには理由があります。それはイスラエルが「祭司の王国、聖なる国民」として、世界に神様の素晴らしさを表し、世界の祝福を祈るためでした。このために、神様はイスラエルを救い出し、イスラエルの神となって、十戒を語られたのでした。十戒は普遍的な戒めではなく、イスラエルを救い出された神様が世界を祝福しようとされることばです。

神様のもとで、神を愛する

前半には神様との関わり方が描かれています。ここに書かれてある行為の根底にあるのは、神様への不信や、自分の思い通りにしたいという欲求です。しかし、私たちを罪とその滅びから救い出す神がいるのだから、神様に信頼し、神様を愛する生き方へと変わることを教えています。

神様のもとで、人を愛する

 後半には人との関わり方が描かれています。これも根底にあるのは自分の欲望で、そのために人を支配する姿です。ですが、これらのものはエジプトにいた頃は当然でした。神も人も自分のために利用して当たり前。しかしイスラエルが救われたのは、地理的な意味でのエジプトからだけではなく、そうした生き方、考え方からも導き出されたのです。そしてもう二度とエジプト(今までの生き方)に戻ることがないよう、神様のもとで変わることを教えているのです。

9月17日(日)の礼拝は、年長者祝福礼拝。出エジプト記20.18-26から「自分のためか、神様のためか」と題してメッセージです。

教区合同礼拝

今日は、京都教区合同礼拝でした。

教区長の内田純牧師がメッセージしてくださいました。

京都教区合同礼拝「あふれる恵み」

詩篇23.1-6

 京都教区合同礼拝を感謝します。2023年度教団標語は「転換点を迎えて-過去への感謝、現在への確信、未来への指針」です。私たちを取り巻く状況はいつだって転換点の連続です。その中で、私たちにとって大切な「変わらぬこと」を見させていただきましょう。

①平穏なときにも恵み 23.1-3

 ここでは「主と私」の関係を「羊飼いと羊」という関係で表現します。何とも平穏な光景です。羊は羊だけでは生きられない、弱く迷いやすい存在です。羊飼いが羊を導き養い癒します。この羊飼いは主。羊は私たち。羊と私たちは一緒か?今、私たちには便利なスマホがあります。知りたいことは何でも検索できます。欲しいものはすぐ注文できます。道案内もしてくれます。夜道の明かりにもなります。でも様々な情報に振りまわされ、ネットにはまり込み、人生という道に迷っていないか?私たちは平穏なときも、主のゆるぎない導きと適切なケアを必要としているのです。

②危機のときにも恵み 23.4-5

 羊は牧草地を移動します。時に肉食獣が潜む谷も通ります。でも羊が戦うのではありません。羊飼いが戦います。「死の谷」ではなく「死の陰の谷」に過ぎない。危機的状況で「主と私」は「あなたと私」へ変化します。「羊飼いと羊」という関係でもなくなります。より近い関係になる。状況は変わらない。敵はいる。でも主が共におられ、食卓を用意し、香油を注ぎ、杯を満たしてくださいます。何というくつろぎ!何という余裕!私たちにも敵(様々な問題)が立ちはだかり、次々襲ってきます。そしてすぐに自分で何とかしようとします。でも、その問題に立ち向かわれるのは主。私たちに大切なのは、主の用意されたもてなしにまずは浸ること。平穏なときも、そして危機のときこそ、主とより親しい関係を築く好機となるのです。

③とこしえまでも恵み 23.6

 「私」は緑の牧場、みぎわ、死の陰の谷、敵の前を経て主の家に住まいます。「主と私」は「あなたと私」、そして主の家族となります。『恵みが追って来る』とあります。恵みが平穏なときにもあふれ、危機のときこそますますあふれ、どこまでも追いかけ、押し上げ、いよいよ主に近づけ、ついに主の家に住まわせるのです。恵みは「今日の礼拝は恵まれた」と言うような、あったりなかったりするものではありません。私たちが生きる上で絶対に欠かせないものです。自然の恵みも救いの恵みもそうです。私たちが主の家に至るまで、主も主の恵みも様々な形で共にあるのです。

 人生山あり谷あり。問題も次々。転換点の連続です。その中で変わらぬことがある。主が導き、恵みを振るまい、もてなし続けておられることです。では、どんな中でも私たちにできる変わらぬことは何か?私たちの身近な人から、主の恵みを分かち合い、もてなすことです。そこから恵みはあふれ出すのです。以上

祈られている教会

2023年8月27日(日)

コロサイ人への手紙も今日が最後です。獄中から出ることはありませんでしたが、獄中から書いた手紙が今や聖書として読めることに、神様のご計画が人の思いをはるかに超えていることを思わされます。パウロはまだ見ぬコロサイの教会の人たちに最後、パウロの同行者からの挨拶も書き加えました。8月27日の礼拝は、コロサイ人への手紙4.10-18から「祈られている教会」と題してメッセージです。

離れないアリスタルコ

 割礼を受けた、神の国のために働く同労者の一人で、パウロとともに囚人となっていたのがアリスタルコです。彼は使徒の働き19章で登場し、それからパウロに同行して、他の人がパウロから離れていくことがあったときにも決して傍を離れることがありませんでした。パウロは彼に慰められたといいます。

普通なら離れていく、去っていく、そんなときにも決して離れない友、それはイエス様ですが、そのイエス様にある友情をアリスタルコは現実にしました。離れたり、責めたりしたくなるときにも、その人の傍にいることは慰めとなります。

戻ってきたマルコ

バルナバのいとこであるマルコはかつて伝道旅行の途中で帰り、パウロは次の伝道旅行にマルコを連れていきませんでした。しかし二人は和解し、パウロはマルコの過去を取り上げることもなく、コロサイの教会が喜んでマルコを迎えるようにとも書き送ります。

パウロはマルコのためにも祈っていたと思います。一度離れたからダメというのでもなく、もう戻れないと思うのでもなく。主にある交わりに帰りましょう。また帰ってくることができるよう祈りましょう。マルコは交わりに戻り、のちにあのマルコの福音書を書き上げました。

祈り続けるエパフラス

 またコロサイに伝道したエパフラスは、教会ができたことからといってそれを良しとせず、コロサイの教会が成熟するようにと祈り続けていました。これは全牧師の祈りです。遠く離れていてもです。祈られていない人は誰もいません。

パウロの大きな働きの陰にはこうした仲間がいました。私たちも仲間に支えらえています。そして次は私も仲間となってお支えしたいと思います。

9月3日(日)の礼拝は、教区合同礼拝。詩篇23.1-6から「あふれる恵み」と題してメッセージです。

奴隷ではなく兄弟

2023年8月20日(日)

コロサイ人への手紙も終わりに近付いてきました。ここにはたくさんの人の名前が出てきます。パウロは決して一人で戦っていたのではなく、パウロが祈っているようにパウロ自身もまたたくさんの人に祈られ支えられてきたことが分かります。8月20日の礼拝は、コロサイ人への手紙4.7-9から「奴隷ではなく兄弟」と題してメッセージです。

兄弟と呼ばれたティキコ

 コロサイ人への手紙は、面識のなかったパウロがコロサイの教会に向けて篤い祈りと願いをもってしたためた手紙です。この大切な手紙をパウロから預かり、コロサイの教会に届けたのがティキコとオネシモでした。ティキコは使徒の働き20章で初めて名前が記され、それからずっとパウロのそばで働きを支えたようです。そんなティキコをパウロは「愛する兄弟、忠実な奉仕者、主にある同労のしもべ」と呼びました。こうした兄弟の存在は決して当たり前ではなく、神様の恵みです。この恵みを軽んじていないでしょうか。感謝しているでしょうか。

励まされるパウロの様子

ティキコは手紙だけでなく、パウロの様子も伝えるために遣わされます。それを聞いてコロサイの人たちが励ましを受けるためです。しかしこのとき、パウロはまだ牢につながれています。どこに励まされるのでしょうか。

普通なら落ち込んで、不貞腐れているかもしれない状況で、パウロはなおキリストの愛に取り囲まれていると主を賛美していました。その姿が励ましなのです。私たちの主にある忍耐や賛美の姿は、人の励ましになるのです!

奴隷から兄弟になったオネシモ

 このティキコに同行したのがオネシモです。オネシモはピレモンの奴隷でありながら逃亡し、パウロと出会ってクリスチャンになりました。パウロはピレモンにオネシモを奴隷としてではなく兄弟として迎え入れるようにお願いします。この姿はイエス・キリストが私たちを受け入れてくださったことと重なります。主はもはや私たちを奴隷ではなく兄弟として受け入れてくださいました。ピレモンもオネシモを赦しました。ここにオネシモの名前があるということは、主イエスにある赦しがなされたことを意味します。

主にあるお互いも「私のもの」でなく、主が与えてくださった恵み、兄弟です。

8月27日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙4.10-18から「祈られている教会」と題してメッセージです。

変えられた祈り

2023年8月13日(日)

コロサイ人への手紙は祈りから始まりましたが、最後も祈りで閉じられようとしています。祈りとは決して願いごとを聞いてもらうための手段ではありません。祈りとは父なる神様との会話、交わりです。願い事を叶えてもらうことではなく、願い事を知っていただくことに重きがあるのです。8月13日の礼拝は、コロサイ人への手紙4.2-6から「変えられた祈り」と題してメッセージです。

目を覚ました祈り

 私たちは普段どんな風にお祈りをしているでしょうか。聖書は、たゆみなく祈ることを教えていますが、ただ祈り続けるというのではなく、感謝をもって目を覚まして祈ることを教えています。祈る時に目を覚ましていることというのは実は関係しています。イエス様もゲッセマネの園で眠ってしまった弟子たちに「目を覚まして祈っていなさい」と語られました。これはただ起きていなさいということではなく、今がどういう時なのか見極めて注意して祈りなさいということです。

今が主にあってどういう時なのか教えていただいて、イエス様が感謝をもって見ておられたように感謝をもって見、たゆみない祈りをおささげします。

とりなしの祈り

パウロはイエス様に出会って人生が180度変えられました。だからこそ喜びをもって、自分のことよりも、何よりも、キリストの奥義を語れることを願いました。本当の救いを知ったからです。パウロはこの霊の戦いを勝ち抜くために祈りを求めました。

牧師のために、また神の家族の戦いのためにとりなして祈ることは力です。

行動とことばのための祈り

 そして教会にまだ来られてない方々に対しては、その人と過ごす時間を神様が与えてくださった時間として、イエス様のように過ごすことを教えています。人が聞いて嬉しい言葉を使いつつ、塩味のきいた料理のように真理を語ります。初めから上手にはできません。味付けに失敗し、言いすぎたり、もっとこんな言い方があったとかを繰り返していくことで、どのように答えていけばよいのか主が教えてくださるのです。

 これが、自分のことばかり祈ることから変えられた祈りです。

8月20日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙4.7-9から「奴隷ではなく兄弟」と題してメッセージです。

伊藤宣教師デピュテーション礼拝

本日は、伊藤宣教師がデピュテーションに来てくださいました。

聖なる神様に会う準備

2023年7月日30日(日)

今日は午後から「ハッピーサマーフェスタ‘23」が行われました。この日のためにそれぞれ担当を決めて買い出し、準備を進めてきました。今日の聖書の箇所にもある準備をした出来事が描かれています。準備をしたのはイスラエルの人たちで、その準備は聖なる神様に会うためでした。会うのに準備をしなければいけない神様とはどのようなお方なのでしょうか。7月30日の礼拝は、出エジプト記19.7-26から「聖なる神様に会う準備」と題してメッセージです。

神様が降りて来られる

 神様がエジプトからイスラエルの人たちを導き出したのは、ご自分と契約関係を結ぶためでした。イスラエルの人たちは「私たちは主の言われたことをすべて行います」と答えて、いよいよ契約が結ばれていきます。神様は契約を結ぶイスラエルの人たちと会うために降りて来られます。時代物の作品を見ると、位が高い人に会えるのは限られた人たちで、それも決して馴れ馴れしく近づくことはありません。しかしイスラエルの人たちはまだ神様がこのような神様だときちんと認識できていませんでした。不用意に近づくことのないように、また聖なる神様のきよさを教えるために、神様は会うための準備をするように命じます。

神様に会う準備をする

神様と会うために、イスラエルの人たちは二日かけて準備をします。服を洗うこと、境を設けること、肉体関係を持たないことです。これが聖なる神様に会うために求められたことでした。私たちは神様に会うのにどれほどの準備をしているでしょうか。どういう意識で礼拝を迎えているでしょうか。

聖なる神様に会う

 三日目の朝、いよいよ神様がシナイ山に降りて来られます。雷鳴と稲妻と厚い雲が山を覆い、神様が来られた合図が鳴り響きます。イスラエルの人たちは初めて見る光景に震え上がり、自分たちが契約を結ぼうとしている神様の力、恐ろしさを目の当たりにしたに違いありません。

そして確かに私たちもこの神様を礼拝しています。神様はこの世界を造り治めるほどの、人とは比べ物にならない力をもった恐るべきお方です。と同時に、主は私たちをご自分の家族に招き入れ、父となり、共に歩まれる愛なるお方です。私たちが礼拝をしているのは、力と、愛に満ちた神様なのです。

8月6日(日)の礼拝は、マルコによる福音書4.35-41から「向こう岸へ渡ろう」と題してメッセージです。

神様の宝もの

2023年7月日23日(日)

あなたは宝ものを持っていますか?それは何ですか?高価なものでしょうか。それとも他の人からしたら大したものではないけれど大切にしているものでしょうか。神様にも宝があります。神様が造られた雄大な自然?貴重な動物?美しい花々?いいえ、それは主を愛し、主の声に聞く私たちです。7月23日の礼拝は、出エジプト記19.1-6から「神様の宝もの」と題してメッセージです。

まず、神が私たちを鷲の翼に乗せた

 鷲というのは、鳥の中でも大きく、高く速く飛ぶことのできる鳥です。視力もよく上空から野生動物を見つけることができます。また雛が生まれるとずっとお世話をし、柔らかい食べ物を与えて育てます。鷲が力強く愛情に満ちているように、神もイスラエルの人たちをエジプトから救い出し、道を開き、必要を満たし、勝利を与え、神様のもとへと持ち運んでくださいました。

これは私たちも同じです。罪の奴隷から救い出され、道が開かれ、必要が満たされてきました。あらゆる言葉を聞くよりもまず聞くべきことは、神が私たちのためにどんなことをしてくださったか、ということです。

(そんな)主の声に聞き従い、契約を守る

神様は私たちと関係を結ぶのに、当時よくあった契約の形を用いられます。わたしはあなたを救い、導き支えてきた。あなたと契約を結び、あなたをわたしの宝ものとしたいのだ!

主の声に聞く、とは、他の声に耳を傾けないということも含みます。他の人は無視ということではありませんが、私たちを縛り付け、貶め、みじめにする声を選ばないということです。そして、それは私たちが神様の言いなりになるとか、神様が私たちをロボットのようにしようとしているのではありません。

祭司の王国、聖なる国民となるために

 その目的とは、イスラエルを、私たちを、祭司の王国、聖なる国民とするためです。祭司というのは神様に仕える人、聖というのは神様のために特別に分けられたことを表しています。そしてそれは世界中に神様の素晴らしさを伝え、広げ、届けていくためなのです。イスラエルの人たちはこの契約を結びました。

私の隣にいる人のために、家族のために、職場のために、地域のために、世界を祝福するために、救いの主の御声に前に聞く私たちは主の宝です。 7月30日(日)の礼拝は、出エジプト記19.7-25から「聖なる神様に会う準備」と題してメッセージです


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