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ともに重荷を負う

2023年7月16日(日)

今日の教会学校のテーマは「愛なる神」でした。神が愛であられる、ということは、神に似せて造られた私たちにとって大事なことは愛するということです。

エジプトから導き出されたときにはまだ民族的な集まりという面が強かったイスラエルの人たちですが、神様は彼らを、神を信じ、愛し合う共同体へと造り上げていかれます。7月16日の礼拝は、出エジプト記18.1-27から「ともに重荷を負う」と題してメッセージです。

神様が選ばれた共同体

 荒野を旅するモーセのもとへ、しゅうとであるイテロがやってきます。彼はエジプトで神がなされた数々の出来事を聞き、主の偉大さをほめたたえました。

翌日イテロは、モーセ一人でイスラエルの何百人とも言われる人たちの話を聞いているのを目撃します。京都市で約145万人ですが、とても一人で負いきれるものではありません。

このイスラエルという共同体はモーセが選んだのでも、自分たちで集まったのでもありません。神様が選ばれました。兄弟姉妹というのは、私たちの心情的なものではなくて、神様がつくられた現実です。

神の前にいることを第一とする共同体

イテロは、この共同体が神様によってつくられたものであると知って、モーセに「あなたは民のために神の前にいなさい」と助言しました。神の前にいるのは、神様の御言葉を聞くためです。神様の御言葉によって方向を示され、力づけられ、神様の愛を実感し、罪の悔い改めが導かれるからです。自分を見ては落ち込み、人を見ては傲慢になる私たちには神様の御言葉が必要です。

ともに重荷を負う共同体

 モーセが神の前にいることができるように、イテロは民の中から、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長を立てて、彼らもともに重荷を負うようにされました。民は小さなことなら彼らに話すのです。これでモーセも立ち続けることができ、民も平安のうちに帰ることができます。モーセだけでなく民全体にとって良いことでした。

 神様はともに重荷を負う共同体を望まれます。私にもできることをともに負わせてください。また一人で抱え込まず、任せていくこともできますように。

7月23日(日)の礼拝は、出エジプト記19.1-6から「神様の宝もの」と題してメッセージです。

ともに戦っている

2023年7月9日(日)

出エジプト記17章の後半にはアマレクとの戦いが記されています。ここを見るとイスラエルの人たちやキリスト教は好戦的なのかと思われるかもしれませんが、ここを私たち対私たちの周りの人と読むのではなく、信仰の戦いを教えているものとして読みたいと思います。主を信じ続けるという信仰の戦いをどう戦えばよいのでしょうか。7月9日の礼拝は、出エジプト記17.8-16から「ともに戦っている」と題してメッセージです。

アマレクと戦うヨシュア

 荒野を旅し、荒野では貴重な水場をもっているイスラエルの人たちを、シナイ半島に住んでいたアマレクの人たちが襲いました。モーセはヨシュアに軍隊を作り、アマレクと戦うように命じます。ヨシュアは後々、モーセのあとイスラエルを率いる指導者となりますが、ずっと奴隷生活を送っていたヨシュアやイスラエルの人たちにとってこれは初めての戦いになります。ヨシュアはモーセに言われた通りアマレクと戦い、アマレクを打ち破ります。

モーセを支えるアロンとフル

しかしこの勝利はヨシュアと軍隊の力によるものではありません。モーセの手が下がっているとき、イスラエルは追い込まれてしまいました。しかし、このときモーセは実際には戦っていませんが、神の杖を持って丘の頂にのぼり、手を上げ続けていました。そしてモーセが手を上げるとイスラエルが優勢になったのです。イスラエルが勝つために、モーセは手を上げ続け、モーセが手を上げ続けられるようアロンとフルはモーセの手を支えました。彼らもともに戦ったのです。私たちも信仰の戦いを戦うために、お互いを支え、支えられる必要があります。モーセが民を支え、アロンとフルにモーセが支えられたように。

モーセの手とともに働く主の手

 そしてモーセの手が上げられていたということは、祈りを意味しているという人もいます。またこれまでのエジプトでのわざわいを振り返ると、モーセの手が伸ばされた時に神様もまるで手を伸ばすかのようにわざわいがくだりました。モーセの手とともに主もともに手をのばし戦っておられたのです。

自分が戦う時があり、兄弟姉妹を支える時があり、支えられる時があります。祈りの手を伸ばすときに主も戦っておられます。皆ともに戦っているのです。

7月16日(日)の礼拝は、出エジプト記18.1-27から「ともに重荷を負う」と題してメッセージです。

神を試みる

2023年7月2日(日)

エジプトを出発し、約束の地に向かうイスラエルの人たちは、人生初めての荒野の旅で、水がない、食べ物がないとは言って騒ぎ、モーセを通して神様に身体も信仰も養われていきます。今日のところで再び水がない問題に直面したイスラエルの人たちは、モーセと争い、主を試みた、とあります。これは、のちにマサ、メリバと呼ばれるほど忘れられない出来事となりました。7月2日の礼拝は、出エジプト記17.1-7から「神を試みる」と題してメッセージです。

主を試みる

 荒野で水がない、ということをイスラエルの人たちは初めて経験したのではありません。以前にも経験し、主が水を与えてくださいました。その経験にも関わらず、イスラエルの人たちは水がないことで再びモーセと争います。

確かに水がないということは何十万人とも何百万人ともいわれるイスラエルの人たちと家畜にとって命に関わること。またこの旅は、「主の命によって」、つまり神様がタイミングと方向を決めてなされたものでしたので、イスラエルの人たちの不満も無理はありません。神様が導いているのなら、きっと悪いことは起きないし、良いことで導かれる。しかしこれこそ主を試みることなのです。主が私たちの思う通りに動いてくださるかを試みているのです。

岩からの水

この状況をモーセは神様に叫び、神様は水が出るとは到底思えない岩から水を出してモーセを助け、神様が確かにともにおられることを明らかにします。ここでモーセと争ったこと、主を試みたことは、マサ(争い)、メリバ(試み)と呼ばれ、マサやメリバで行ったように、主を試みてはならないと聖書に記録されることになります。

自分も試されている

 しかし実は試されたのは神様だけではありません。イスラエル自身もまた神様によって試されていました。自分の思い通りにならない中で、それでも神様がともにおられることを信じ、信頼しますか、と。残念ながらイスラエルは「はい」と答えられずモーセと争い、主を試すこととなりました。しかし神様はそんなイスラエルをも憐れみ見離すことはありませんでした。私たちの思いや考えがすべてではありません。へりくだって、いつも感謝して今を生きたいと思います。

7月9日(日)の礼拝は、出エジプト記17.8-16から「ともに戦っている」と題してメッセージです。

神に愛されている者へ

2023年6月25日(日)

新型コロナが第5類に移行したこともあり、教区や教会でもインターネットを併用しての集会を持てるようになってきました。教会で集まることができるのは喜びであると同時に、実はとても大事なことで、パウロはこの中で教会が身に着けるべきことを教えています。6月25日の礼拝は、コロサイ人への手紙3.12-4.1から「神に愛されている者へ」と題してメッセージです。

神に愛されている私たち教会

 私たちが洗礼を受けた時、何か劇的な変化を経験しなかったかもしれませんが、神様から見たら私たちはキリストとともに死に、キリストとともによみがえらされていました。パウロはこれを服にたとえて、古い人を脱ぎ、新しい服を着たのだと語ります。これは私たちが特別だからでも、神様が私たちに何か見返りを求めてのことでもありません。ただただ神様がそれを願われ、そうしてくださったのです。神様に新しい服を着せられるほどに神に選ばれ、神のために神のものとされ、神に愛されているあなたがた教会は、とパウロは呼びかけます。

愛されている教会として着なさい

神様に愛されている私たち教会に向かって、パウロは深い慈愛の心や親切、謙遜など身に着けるべきものを語ります。どの言葉をとっても素晴らしいものですし、そうありたいものですが、実際は…というのが現実のようにも思います。

しかしパウロは無理難題を押し付けているのではありません。キーワードは、「主が…してくださったように」です。ここに書かれているものはすべてイエス様のご性質です。この通りにこの地上を歩まれた方がおられる。その方の御霊が私たちのうちにおられるのです。

教会で何かをしようとすると、意見の不一致があるかもしれません。そのときこそ親切や謙遜が試され、整えられます。13節には「不満」という言葉も出てきますが、いつの時代の教会にも不満はあるものなのでしょう。しかし不満を抱く状況でこそ、イエス様の品性に近づくのです。私たちの心がキリストの平和に、私たちのことばがキリストのことばとなることを何よりも求めたいと思います。

家庭や社会でキリストのように

 パウロはこの新しい服を私たちの実生活の中で実践することを勧めています。主が私にしてくださったように、私も周りの方々に行えますように。

7月2日(日)の礼拝は、出エジプト記17.1-7から「神を試みる」と題してメッセージです。

上にあるものを思いなさい

2023年6月18日(日)

6月の第三日曜日は父の日です。父に感謝を表す日というのは世界中にあるそうですが、この日を父の日とするのはアメリカに起源があります。幼い頃に母親を亡くした女性が教会で母の日があることを知り、自分たち兄弟を男手一つで育ててくれた父親にも感謝する日を作りたいと声を上げたのが始まりです。改めて、守り育ててくれた父親に感謝を表すとともに、私たちを日々支え、必要を満たし、優しく抱きしめていてくださる天の父にも感謝をささげたいと思います。6月18日の礼拝は、コロサイ人への手紙3.1-11から「上にあるものを思いなさい」と題してメッセージです。

キリストとともによみがえらされた!

 パウロもこの手紙の始めで、コロサイの人たちが「御父に感謝をささげることができますように」と祈りました。それはコロサイの人たちがキリストにあって成熟した者となるためです。キリストにあって成熟した者とは、神様が私たちのために何をしてくださったかを知って感謝する人のことです。

私たちがバプテスマを受けたとき、キリストとともに死に、キリストとともによみがえらされました。もはや人の作った教えや掟に死に(影響されず)、上を思う者としてよみがえらされたのです。上というのはキリストです。上を思うためによみがえらされたこのいのちは、イエス様の再臨で現われます。

以前の古い人は脱ぎ捨てて!

私たちが元々歩んでいたのは、欲や怒り、悪の中でした。パウロはこれを服にたとえて、私たちは欲や悪の服を着ていたけれどもそれは脱ぎ捨てたのだと教えます。パウロはこれらを「殺してしまいなさい」「捨てなさい」と強い口調で迫りますが、それほど大事なことなのです。

新しい服を着た!

 神様は私たちに新しい服を着せてくださいました。この服は私たちを真の知識に至らせます。この服は限られた人だけに与えられるのではありません。人種を超えて、すべての人に与えられるものです。

この事実のゆえに上を求めるのです。そこには私たちの罪のために、唾をかけられ、鞭うたれ、ののしられ、釘を刺されたキリストがおられます。私たちはそのイエス様を見ながら、勇気づけられ、忍耐をおぼえて、今週も歩むのです。

6月25日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙3.12-4.1から「神に愛されている者へ」と題してメッセージです。

もう縛られません

2023年6月11日(日)

今日はキリスト教のこよみで「花の日・子どもの日」です。たくさんの花が咲くこの頃に、子どもたちの成長と祝福を祈ります。今日は天授ヶ岡教会でもたくさんの花々に囲まれての礼拝となりました。6月11日の礼拝は、コロサイ人への手紙2.20-23から「もう縛られません」と題してメッセージです。

どうしてまだ縛られるのですか

 律法を守るように教える人たちや自分の体験を誇って、本当にはイエス様に結び付いていない人たちからとやかく言われるようなことがあってはいけないと教えたパウロは、次にコロサイの人たちに向かって「どうしてまだこの世に生きているかのように定めに縛られるのか」と聞いています。この世が当然とする考え方や風潮に対して、まだそんなことを思っているのかと警告します。

私たちはコロサイの人たちではありませんので、コロサイの人たちが持っていたような慣習やユダヤ教の教えが身に沁みついているわけではありません。しかしクリスチャンになりながらなお、縛られなくてもいいことに縛られる、流されるということがあるのです。

知恵あるようで役に立たないもの

それらは人が作ったものに過ぎません。人が作ったものですから、守っても何にもならないし、守らなくてもどうもならないものです。しかしこれらのものが受け入れられるのは、それが知恵のあるもののように見えて、自分が安心するからです。パウロは同じ「礼拝」でも、神様を崇め、神様に聞き、神様に悔い改める礼拝ではなく、自分に関心を持ち、神様よりも人を見て、自分を誇り、人をさばく自分勝手な礼拝は何の価値もないと言います。

キリストとともに死んで離された

 しかし私たちはキリストとともに死に、この世のもろもろの霊、つまり自分を縛るものや自己満足するものからも離されたのです。それらはもう死んだのです。人の言葉に縛られる私も、その苦行に満足する私も死にました。そういったものにもはや支配されていません。私たちがイエス様を信じて受けた救いはそれほど大きなものです。私たちはもう縛られていません。

 …とここまでなら死んでおわりですが、次の3章からはキリストとともによみがえらされた私たちの新しい歩みが始まります。

6月18日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙3.1-11から「上にあるものを思いなさい」と題してメッセージです。

影ではなく本体が大事

2023年6月4日(日)

先週はペンテコステ、聖霊降臨日でした。キリスト教には他にも、クリスマス、イースターと大切な日がありますが、どちらも本来の意味ではない説明がなされていることがあります。私たちクリスチャンは「本当の意味を知ってほしい!」と願いますが、今日お読みしたコロサイ人への手紙でも「本当の意味は別にあるんだよ!」とパウロは訴えています。6月4日の礼拝は、コロサイ人への手紙2.16-17から「影より本体が大事」と題してメッセージです。

影の律法と本体のキリスト

 ペンテコステで誕生した教会ですが、クリスチャンになったのはもともとユダヤ教を信仰していた人たちでした。ユダヤ教では、神の民となるには律法を守ることを教えます。すると、クリスチャンになってもユダヤ教の思想が残っていますので、律法にあることを守るべきか、守らないのか、と言って批判が起こっていたのです。しかしパウロは、律法はイエスさまこそ待望のメシアであることを示すもの、影であり、それらの本体はキリストにあることを教えます。イエス様が来られた今、もう律法は影です。律法は今や守るものではなく、神様の愛とイエス様を指し示すものとなったのです。私たちは律法によって神の民とされるのではないのです。

結びついているのは幻か、かしらか

続いてパウロは自己卑下や御使い礼拝をしている人たちにも断罪されないようにと語ります。自己卑下も、御使い礼拝も、その根底にあるのは、自分が見た幻や体験を誇ることだからです。これらの人たちはかしらであるイエス様にしっかりと結びあっていません。私自身、さまざまな証し集を読み、先人たちの素晴らしい体験を知り、求めたことがあります。しかしいつの間にか、イエス様ご自身を求めるよりも、体験を求めていることに気づかされました。新聖歌の中にも、かつて自分は良いものを求めていたが主を忘れていた、賜物それよりも、癒しそれよりも、与え主こそさらに良いのだという賛美があります。主に結び付くならば教会はつながり神様が成長させてくださいますが、自分の体験に結び付く人は、優越感や劣等感で溝ができます。

私たちが神の民とされたのは神様の驚くべき恵みのゆえです。自分のしたことや体験したことで区別されるのではありません。私たちが仰ぎ求めるべきはイエス様のみなのです。

6月11日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙2.20-23から「もう縛られません」と題してメッセージです。

聖霊に導かれた人々

2023年5月28日(日)

今日はキリスト教にとって大事な三大行事の一つ、ペンテコステです。しかし他のクリスマスやイースターと比べてそこまで祝われていいないので、印象が薄いかもしれません。今日は使徒の働き2章に記されている、このペンテコステに起こった出来事を見たいと思います。5月28日の礼拝は、使徒の働き2.1-12から「聖霊に導かれた人々」と題してメッセージです。

神様の大きなみわざを語る人々

 もともとこの五旬節の日は、世界各地からユダヤ人たちが祭りを祝うためにエルサレムに集まっている時期でもありました。この日、天から激しい風が吹いたような響きがあり、炎のような舌が一人ひとりの上にとどまったのです。これまでも聖霊が人の上に臨むことは旧約聖書にもありましたが、それは特別な時、特別な人に限られていました。しかしこの日、聖霊がくだり、一人ひとりの上にとどまったのです!聖霊がとどまった彼らは、神様の大きなみわざについて語りました。聖霊も神様なので、神様のことを解き明かされるのです。

教会に集まる人々

神様の大きなみわざについて聞いた人たちは、悔い改めてバプテスマを受け、その日3000人もの人が仲間に加わります。それで終わらず、彼らは集まって、聖書の話を聞き、交わりをもっていました。ここに「教会」が誕生します。教会とは建物でも組織でもなく、神様の言葉が語られ、聞いている人たちの集まりを指すのです。教会は弟子たちが建てたのではありません。この天授ヶ岡教会も、神様の言葉が語られ、聞かれるから教会なのです。聖霊に導かれた人々は、教会に集まり、神様の言葉を聞くのです。

一つになる人々

これだけの人たちが集まりながら、聖書は「信者となった人々はみな一つになって」「心を一つにして宮に集まり」「主は…一つにしてくださった」と語ります。これは信者が画一的になったと言っているのではなく、一致していることを指します。神様と人を愛することにおいて、またイエス様を証しし、宣べ伝えることにおいて一つとなったのです。

私たちにもこの聖霊は働き続けています。教会にはさまざまな働きや奉仕がありますが、愛と宣教において一つとなって聖霊の導きを仰ぎましょう。

6月4日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙2.16-19から「影ではなく本体が大事」と題してメッセージです。

パンと安息

2023年5月21日(日)

出エジプト記16章も前回と同じく荒野で不平を言うイスラエルの姿が描かれています。前回は荒野で水がなく、やっと見つけたと思っても苦い水だったことの不平でしたが、ここシンの荒野では「われわれを飢え死にさせるのか」と訴えています。5月21日の礼拝は、出エジプト記16.1―36から「パンと安息」と題してメッセージです。

不平をこぼすイスラエルの人たち

 エジプトから導き出され、約束の地カナンに向かうイスラエルの人たちですが、それはイスラエルの人たちの計画や決心ではなく、神様の導きによるものです。したがってイスラエルの人たちはどこをどれくらい行くことになるのか知らなかったのでしょう。まして旅にも慣れていない人たちです。「いつもと違う」、「思い通りではない」ことに次第に不安や不平が募ってきました。「奴隷」から荒野を旅することになったのに、イスラエルの人たちの心は奴隷のまま、何かあるとすぐにファラオのせい、モーセのせいにしてしまいます。

天からのパン

そんな民にむかって神様が言われたことは、神様がイスラエルの人たちのために天からパンを降らせるというものでした。「これは何だろう」という言葉からこれはマナと呼ばれます。イスラエルの人たちは毎朝これを集めるのですが、たくさん集めても余ることがなく、少しだけ集めた人にも足りないことはありませんでした。神様は一人ひとりに十分な必要を備えてくださいます。

安息をおぼえる

マナはふつう次の日には持ち越すことができませんでしたが、6日目だけいつもの2倍、つまり2日分集めるように言われました。7日目は主の聖なる安息なので、神の民であるイスラエルの人たちも7日目は休むのです。

しかしイスラエルの人たちは集めたものを次の日に残したり、7日目にも集めに出かけたりしました。神様が養ってくださり、安息を与えてくださるということを信じきれなかったのです。イスラエルの人たちは今までそのような主人に会ったことがなかったので、愛されることを知らなかったのです。主は、そんなイスラエルの人たちの不平を聞き、神様の愛の中で生きること、信頼することを教えています。私たちもこの愛の中で、主をどこまでも信頼することを学びます。

5月28日(日)の礼拝は、使徒の働き2.1-13から「聖霊に導かれた人々」と題してメッセージです。

あなたを癒やす神

2023年5月14日(日)

イスラエルの人たちは今まで自分たちを苦しめてきたエジプト軍を神様が海に沈められたと喜び躍って歌いましたが、その次に描かれているのはイスラエルの人たちがモーセに向かって不平を言う場面です。5月14日の礼拝は、出エジプト記15.22―26から「あなたを癒やす神」と題してメッセージです。

不平を言うイスラエルの人たち

 ここでいよいよイスラエルの人たちは葦の海から旅立ち、約束の地に向かって進みだして行きます。向かった先はシュルの荒野でしたが、なんと三日間水が見つからず、やっと水を見つけたと思ったらそこの水は苦くて飲むことができません。それでイスラエルの人たちはモーセに不平を言います。「われわれは何を飲んだらいいのか。」イスラエルの人たちはこれまでも、なにかあるとモーセに不平を言うのは常でした。

不平はその人、ものに対する不信感から出てきます。自分だけを苦しめている、もっとこうあるべきじゃないのか、と思うのです。そしてこの姿はイスラエルだけではなく自分自身とも重なります。

主に叫ぶモーセ

不平を言うイスラエルの人たちを前にモーセがしたことは、説得でも自分で水を捜しに行くことでもありませんでした。モーセは主に叫んだのです。神様に助けを求めました。神様はモーセに一本の木を示し、それを投げ込むと水が甘くなったのです。これからの長い旅で、たびたび不平を言うイスラエルの人たちを前に、民を率いるモーセの対応が問われたのでした。

癒やす神

神様は荒野に連れ出して水を飲ませることもできないような、イスラエルを苦しめるお方ではありません。なぜなら癒やす神だからです。しかし民はまだ神様を分かっておらず、現実でなにかあると信じきれないのです。

このあとイスラエルの人たちは泉が12、なつめやしが70本も生えているエリムに到着し、そこに宿営します。そしてそのあとはシンの荒野へと入っていきます。神様はその旅路を通して、主であるご自分を教えて続けてくださいます。

神様は私たちに触れてくださり癒してくださる。私たちもこの神様のもとで神様の声に聴き続けたいと思います。

5月21日(日)の礼拝は、出エジプト記16.1-36から「パンと安息」と題してメッセージです。


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